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「鍵を届けに来たのは本当。インターホンでも電話でも起きられる自信が無かったから、一度ショップの方に行ってあなたに届けてもらえるよう頼んだ。……ただ、行き違いになってしまったらしくてあなたが退勤した後だったのだけれど」 「それで、私たちがどこのカフェに入ったか聞いたんですか? 言ってないのになんでわかったんだろうって……」 「いや、俺が話しかけた店員は知らなかったから近くの店をいろいろ見た。そしたらいろいろ目移りしてしまって、これはそのお土産。中は家に着いてからのお楽しみ」  彼はバッグから小さな紙袋を覗かせる。よく前を通る雑貨屋のロゴに気づいた私の胸は踊り始めてしまった。何を隠そう、雰囲気がストライクで気になってはいたものの、なかなか足を踏み入れられずに外から眺めていたお店だ。目に見える範囲でも上品で繊細な装飾の雑貨たちは私の好みをことごとく撃ち抜いていて、憧れが詰まった夢の場所だった。 「嬉しいです……! ここのお店、凄く気になってて!」 「中身も気に入ってもらえることを願うよ。……まぁ、そんなこんなであなたたちを見つけたわけなんだけれど、あなたの様子がおかしかったから体調でも悪いのかと思って連れ出してしまったんだ。余計なことをした」  眉をひそめてゆっくりと歩き出す彼の足がコンクリートの固い音を立てる。それに着いて行きながら、あのときの私は傍から見ても挙動不審だったのかと恥ずかしくなってきてしまった。頭がかき混ぜられたかのように私の中の全てがぐちゃぐちゃになって、目の前の睦月さんしか見えなくて、この人なら自分を救ってくれるのではと縋りたくなってしまう感覚。自覚はなかったけれど疲れているのかもしれない。  それとは別に、彼が私の様子に気づいてくれたのが嬉しくもあった。毎日一緒に過ごしているのだからとも思うが、少なからず興味を持って接してくれているのだと。 「あのとき変なことを言っちゃいそうだったので……連れ出してもらえて、助かりました。ありがとうございます」  睦月さんの告白には答えられなかったが、あのままでは勢いで何かを決めてしまいそうで怖かった。想いに応えるとまでは言わなくても、家にお邪魔させていただきますとは言ってしまいそうだったし。カガチさんから一度距離をとるのは一つの手だとは思うが、私はまだ正気に戻りたくない。まるで図書館で本を読むキキョウを眺めるのが楽しかったときのように、些細なことに一喜一憂するのにどこか楽しささえ覚え始めていた。いつか彼が帰ってきたときに伝えたらどんな顔をされるのだろう。まるでもう一回あなたに恋したみたい、なんて。 「迷惑じゃないなら良かった」  駅の付近まで来たところでさりげなく手を握られる。人混みに流されないように気を遣ってくれているらしく、歩幅を合わせながらすれ違う人にぶつからないよう誘導してくれるのがありがたい。しかし、彼が私にこうした気遣いを見せるのは男心などではなく慈愛の心からだ。私が彼に向けるものとは違って、ただ親しい人間としての好意。まるで兄ができたみたい。  キキョウが滲ませていたあの執着を感じられないのは寂しい。今日久しぶりに睦月さんの目の中に見た、あの感じ。  しゃんと伸びた背中と朗らかな微笑みからは想像できないほど、彼はとにかく自信のない人だった。なぜそこまで卑下するのだろうと不思議に思っていた時期もあったが、付き合っているうちに自ずと解き明かされてきた家庭環境の悪さ。家族から胸に詰め込まれた氷はなかなか溶けることがなかったらしく、交際を始めると徐々にその重さが見えてきた。私が自分から離れるんじゃないかと急にどうしようもなく不安になるのだと打ち明けてられて、そうなったらいつでもハグしようと約束したのを覚えている。  暴力に訴えかけることなんかが全くなかったのは彼の善性のおかげだろうが、明るく穏やかな様相とは裏腹に異様なほどの執着を抱いていた。束縛することも自分の欲求を素直に晒すのも不得意な人だったが、それでもわかってしまうほど。本来それは家族に向くはずだったものも含まれていたのかもしれない。なんで私だったのかはわからないけれど、そういうところが可愛くて仕方がなかった。その不器用な愛が心地よかった。彼が、好きだった。
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