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 丸ごと暗い記憶すらも忘れてしまったからか、カガチさんからは私への執着も消えてしまったのだろう。今の彼の中には家を出る前の辛い記憶を記録として知っているだけで、自分が受けたものとしての実感は薄いはずだ。飢えた記憶がなければ縋りつこうとは思わない。きっと今の方が幸福なのだろうけれど、こんなことを願ってはいけないのだけれど。 「睦月さんが……、あなたのことを好きな人が、良い人みたいで安心したよ」  カガチさんはそんなことを言う。何でもないような顔で、何でもないような声で。  私が求めているものはただの汚らわしいわがままだと理解はしているが、それでも、かつての自分の恋人だったという女が異性として好かれている相手に指を絡められている現場を目撃したのだ。怒りだろうと不安だろうと何でもいいから、感情を見せてくれてもいいじゃないかと思ってしまう。 「……私が睦月さんと付き合っても、カガチさんは気にしませんか?」  少し、ほんの少しでいいから、瞳が揺れてくれればいいのに。握った手に痛いほど力を込めてくれればいいのに。指を絡めてくれればいいのに。 「俺にそれを止める権利はないから。……まぁ、彼が帰ってくるまであなたを引き留められないことは申し訳なく思うけれど」  カガチさん自身が嫌とか、付き合ってほしくないだとかいう言葉は一切出てこない。やはり彼の中での私はずっと他人の恋人くらいの認識でしかないのだろう。たまたまその他人は記憶をなくす前の自分で、アイデンティティを取り戻すためにはかなりコスパの良い手段としてたまたま恋人であった私と関わっているだけ。たまたま自分が用意していたらしいチケットの束がどれもふたり分だったからコミュニケーションも兼ねて一緒に行動していて、たまたま同棲していたのを拒むことなくそのまま受け入れている。  自分でも知らないうちにここまでカガチさんへの想いが強くなっていたのかという驚きと、このままこの人といても辛いだけかもしれないという恐怖が胸の中で忙しなく波を立てている。いっそキキョウのこともカガチさんのことも諦めて、睦月さんのそばにいさせてもらえれば楽になるのかもしれない。――私は、何度彼から逃げれば気が済むのだろう。 「…………俺と、こんなことしていいのか?」  意を決して自分から彼へ指を伸ばした。角張った指と指の間を通って目立つ節の隙間を縫って、薄い水かきまで密着するくらい。今の彼とはしたことのない手の繋ぎ方。ただ繋ぎ方が違うだけなのに、どうしてこうも胸が高鳴るのか。 「体はキキョウのものですし。……カガチさんが気にしないなら、このままでいたいです」  そうか、と静かに彼は握る力を少しだけ強めた。それさえもおそらく人混みの密度が増したからだろう。勘違いして逆上せそうな頭を引き止めて、私のためではないのだと言い聞かせる。私に応えてくれているなら、そんなに幸福なことはないのに。  会話と人に溢れた道を、独特な空気感を纏ったまま歩く。午後五時も過ぎようかという時間のせいで、退勤するスーツの人々や制服と学生鞄のまま遊んでいる学生たちも含まれた集団ですっかりもみくちゃだ。なるべくカガチさんから離れないように、腕と腕がくっつくくらい近づいてしっかり絡めた指たちに力を込める。
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