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 最近は、カガチさんをカガチさんとして好きだと言ってしまおうかと毎日のように考えていた。キキョウの面影を見つけるたび、彼ではないと線を引きながらも確かに惹かれる心を自覚せずにはいられない。それが誠実なのか不誠実なのかはわからないし、ころころと考えを変えてしまう自分に嫌気がさしてくる。あんなに拒絶しておいて、恋人の欠片を見つければいやらしく執着し始めて、それでもまだ善人ぶるのを辞められない。  結局のところ、納得できていないのだ。実態のない不確定要素で恋人が恋人でなくなったことが。  たとえ砂の一粒であっても、目に見える形で存在しているものが失われたのならまだわかる。しかし、頭の中にある記憶という概念なんてどう観測すればいいのかわからないものに恋人を奪われてしまった。どこに怒りをぶつければいいのか、このやるせなさはどうすればいいのかずっとわからなかった。今ほど神がいてほしいと願ったことはない。透明な腕で、どうせ人間には見えないのだから気づかないだろうと傲慢に彼の記憶を摘み取ってしまったのだとでも信じないと、何かのせいにしないと燃えたぎる怒りはどんどん積もって固まって、私の身動きをとれないようにしてしまう。  納得できないから上手く割り切れないし、恋人は恋人のままだと信じたいし、いっそ見た目から変わってしまえば良かったのにと今でも考える。そうすれば諦めもついたかもしれないのに、入院している間にかさぶたもすっかり剥がれた顔は出会った頃からほとんど変わらない。身も心も別人であれば手放せた。納得できた。でも変わったのは目に見えなくて重さもなくて触れられもしない空気みたいなもの。確かなものを指標にできないからすぐ道に迷ってしまう。  ただわかるのは、キキョウと同じようにカガチさんにも惹かれていること。抗いようもないくらい。だから、少しでも早くキキョウが帰ってきてくれやしないかと毎日願っている。全てを受け入れて諦めてしまう前に。彼が帰ってくると信じられていられるうちに。そうでなければ、私はどうなってしまうのかわからない。どうすればいいのかわからない。 「……俺は、どこまであなたに触れていいのかな」  低く零された言葉が耳に届き、ほとんど反射的に顔を上げる。頭を淀ませていたせいか、それともインパクトが強かったためか、すぐには呑み込めなかったその言葉。ようやく脳に入ったところで私は小さく間抜けな声を上げた。ぱちんとぶつかった視線から逃げるように、彼は瞳を前に戻しながら囁く。 「あなたが触れたいなら存分に触れてくれればいい。これはあなたのものだから。……ただ、あなたに触れられていると俺からもそうしたいと思ってしまう。俺はもうあなたの恋人ではないことくらいわかっているのに」  時折私の方へ視線を寄越してはすぐに逸らす、を繰り返しながらいつもよりくぐもった声で彼はひとりごとかのように話す。それは私の体温を上げてしまうには十分で、自制していた胸が期待に膨らみ始めてしまった。もしかして、同じように思ってくれているんじゃないか。それを表に出さないのはかつての自分であった男への後ろめたさからではないか。少し乾燥した指先に手の甲をなぞられて肩が跳ねた。今までの思考を全て吹き飛ばすようなその衝撃は背骨を駆け抜けて、また心臓が激しく騒ぎ始める。今日は心が忙しくて仕方がない。 「……困らせたな。忘れてほしい」  何も言えない私を見て眉をひそめてしまった。 「いえ、大丈夫、です。えっと……ちょっと、待ってくださいね」  とりあえず不快にはなっていないことを伝えたくて、しどろもどろに返事をする。でも、その次に何を言えばいいのかわからない。嬉しいです、いくらでも触っていいですよ、あなたが好きです、…………はしたない女だと思われないだろうか。記憶がない自分を恋人の代替品にしようとしてる女だと思われたりは。そんな考えに侵されてしまうと、ただの一音だって声にすることができなくなる。
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