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「カガチさん、もしかして私のこと好きなんですか?」  柔らかい顔にときめいてしまったのを誤魔化そうと笑い混じりにからかうような言葉を発してみた。明確に言葉にはされていないものの、あんな男の目で、触れたいなんて言うものだから。 「バレたか」 「………………えっ」  するりと零された声に、形容しがたい音が私から漏れる。その音を出したのが自分だと気づくのに数秒かかってしまうほど、私の頭は一切の活動を止めていた。徐々に思考回路が復活し始めるとともに全身の血が沸き立つように熱くなってくる。いつの間にか辿り着いていたマンションの入り口、固いタイルの上で立ち止まった私に引き止められるようにして彼はこちらへ向き直った。 「気がついてなかったのか? 俺はあなたが好きだ。愛してる。本当は、他の男に手を握られているのを見て嫉妬に狂いそうだった」  繋いだ手を引き寄せ、私の手の甲に優しく唇を落とす。混乱したまま言葉を返すこともできない私に小さく笑いを見せて、指をゆっくり解くと今度はすぐ横から長い腕が腰へ巻きついた。久しぶりのその感覚にむず痒さと気恥しさが頭を貫き、大袈裟なほどに体が跳ねる。呑気な脳内には背後にきゅうりを置かれた猫の映像が流れた。今の私はきっとこんな様子だったのだろう。 「ここじゃ少し恥ずかしい。早く部屋に行こう」  本当にそんなことを思っているのか、狭い歩幅で歩き始めた彼の体に支えられるようにして私の足もタイルから剥がれ始めた。革靴と低いヒールの足音が少しづつズレながら廊下に響く。タイミングが良いのか悪いのか、ちょうどこの階にいたらしいエレベーターはボタンを押すとすぐに扉を開けて私たちを迎え入れた。  一度も止まることなく三階へ到着してしまい、再び歩き出す。心臓の異常を疑ってしまうほど大きな鼓動が耳の奥でずっと響いているのを聞いていると、さらに焦るように音の感覚が狭まっていくような気さえした。彼の言葉にちゃんと返事ができるかはわからないけれど、喋っている方がずっとマシに思う。沈黙も愛せるなんてただの気の迷いだったようだ。 「……どうした?」  彼はどこか艶っぽく口の端を上げて部屋の鍵を開けた音に体を強ばらせた私を見下しながら、焦れったくなるような手つきでのんびりドアノブをひねり、扉を開け、足を進められない私の腰を一本の指でとんとんと叩く。  慣れ親しんだ自分の家だ。キキョウとの家で、カガチさんとの家でもある。数年住んだそこは気の休まるお気に入りの空間だったはずなのに、今日はそこに一歩踏み込めば別世界へ落ちてしまうんじゃないかと思うような妙な緊張感があった。 「カガチさ、っ……!?」  先に入った彼が痺れを切らしたように私の腕を強く引っ張り、しっかりと抱きとめると器用に手早く内鍵とチェーンをかける。電気もつけず薄暗いままの玄関で、靴を履いたまま強く抱かれて目を白黒させる私を離してくれる気配はない。逃がさないとばかりの力強さに胸を高鳴らせながら厚い体へ腕を伸ばした。 「…………昨日まで、こんなじゃなかったじゃないですか」 「想いを知られたなら、もう隠す必要はない」  低く響く声が脳を揺らす。心地よい体温に絆されながら、まるで別の生き物にのしかかられているような重さに懐かしいものを感じて彼の胸に頭を擦り寄せた。こんなに切羽詰まった様子を見るのは、それこそキキョウがいた頃以来だ。しかしその時ですら、こんなに帰宅早々余裕なく抱きしめられることはなかったと思う。なにかいけないことをしている感覚だ。別にやましいことはしていないし、他の住民に見られることなんてないというのに、扉一枚隔てた廊下に誰かが通ったらどうしようと考えてしまう。 「もう我慢できない。心から愛しているんだ。俺はあなたの恋人ではないけれど、それでも」  
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