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 ようやく目の縁から溢れなくなった涙は睫毛をびっしょり濡らしている。下瞼にくっついていることも感じながら、少しの水くらいではビクともしないマスカラを纏ったことに安堵してしまう自分の正気を疑った。  喉を撫でながら離れていく手を目で追いながら、久しぶりに肺の奥が空気で冷たくなる。小さく咳き込んで喉が広がるのを確認して少しずつ体を起こした。多少距離は空いたものの、その目は虎視眈々と獲物を狙っているかのようで、鍵もかかっていないドアがまるで鉄壁の門扉にすら見えてくる。この部屋がこんなに居心地悪く思えたのは初めてだ。 「…………日記?」  彼が手にした本の表紙に目が惹き付けられる。ちょうど一年分のページで構成されているらしい、市販の日記帳。刻まれた年数は三年前のものだ。 「俺は最初、彼を真似るつもりだった。だが似ても似つかなかっただろう? 日記なんてこの上ない資料があるのに、何故だと思う?」  執筆用の机に添えられていた椅子をベッドの横へ引っ張り、そこへ腰かけてわざとらしく日記帳の表紙を私に向けながら意図のわからない質問を投げる。意地の悪いその顔は私が何か答えるまで話を進めないとはっきり書いていて、その沈黙は熱の上がった頭を冷ますには十分だった。  確かに彼の様相はキキョウと全く同じはずなのに、別人だと感じたことは数え切れないほどにある。ふとした瞬間にキキョウのような動作をしたこともあるがそもそも口調も一人称も違うのだ。日記なんて自我の一番表れそうなものを読んでいたなら少なくとも一人称くらいは合致しそうなものだし、口調に至っては固すぎる。 「……あなたじゃ、あの人の善性に届かなかったんじゃないですか」  記憶を失っても変わらず善人だなんて間違いだった。全てがゼロに戻ったと考えれば、この悪魔のような男に精神が派生してしまってもおかしくない。別人として構成された人格が、見たこともない別人を完璧に演じるなんて不可能だろう。どれだけ精巧な台本が用意されていてどれだけ優れた演者がキャスティングされていても、読み取れる情報には限りがあるのだから。 「違う。あの男の日記に人間性というものが感じられなかったからだ。まるで報告書みたいに無機質な記録しか連ねられていない」  開かれたページに視線を奪われる。本当は喉から手が出るほど欲していた彼の日記。いつも何を考えて何を感じていたのか、彼がいなくなってからいっそう知りたくて堪らなかった。一方的であったとしても私に向いていなかったとしても、そこにあるのは彼の言葉だから。  でも、右上がりで文字の間隔の狭い彼の癖字で書かれた文章は思っていたものとは違っていた。 「『九月十日、月曜日。十三時起床。三章の執筆終了。文月先生に飲みに誘われたが、ヒバナが寝不足気味なので断った。今日は良い一日だった。』……最後の一文は取って付けたかのように毎日、ちゃんと書かれてる。本当に良い一日なのか疑うくらい、な」  ――――本当に、ただの記録みたいだと思ってしまった。  その三行に収まった一日の感想には、彼の言うように人間味は全く感じられない。書かなきゃいけない報告書に当たり障りのないものを書くとか、夏休みの宿題で毎日日記を書かなきゃいけないとか、そういう義務感だけで続いているのかと疑うほど。彼の言うとおり、最後に添えられた一行が余計に冷たさを増幅させていた。
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