まやかし

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まやかし

 同居人は恋人ではなく『カガチ』という別人だと思い込んでしまうと、少しずつ彼個人のことを認識できるようになってきた。  カガチさんと呼んで敬語を使い、他人行儀に振る舞うことを覚えると会話も可能になって、恋人と別れた後はこんな感覚なのだろうかと思うようにすらなれた。気まずさはあるが、接してみれば彼の穏やかな気風は変わっておらず、本当に双子の兄のように見えてしまうのだ。  元の活発な性格に比べてずっと落ち着いている分、年上らしい大人っぽさを感じることが増えた。淡々とした静かな話し方も別人だと思ってしまえば案外気にならないもので、行きどころを失った嫌悪は目眩のような罪悪感へと変貌していた。別人だと考えれば考えるほどに膨れ上がるそれは、ふと頭から腹の中まで響くような痺れを引き起こして平和な夜を隠してしまう。  三週間ほど経っただろうか、日常会話を交わすことに慣れてきた頃だ。彼はキキョウの実家を訪ねてみるのはどうかと切り出してきたのは。 「やめたほうがいいと思います」  食い気味に否定の言葉が吐き出された。私がこんな物言いをするのが新鮮だったのか、二度瞬きをして、手でソファに座るように促しながら理由を尋ねてくる。簡単に語れる話ではないと察しているのだろう。  躊躇いはしたが、全くの他人というわけでもない。いずれ記憶を取り戻しさえすれば本人なのだから良いのではないか。一瞬のうちに巡る思考の中で、まだカガチとキキョウに結ばれたイコールに線を引くことができていないことに気がつきつつも、そこには目を瞑ってソファに腰を下ろした。 「何か飲むか」 「大丈夫です。まだ飲みきってないの、あるんで」 「そう」  大学用のバッグから飲みかけのペットボトルを見せると、彼も向かいのソファに座って話を聞く体制が整ったとばかりに私を見た。しかし、決して明るい話題でもない。どんなトーンで話せばいいのか。彼のことを私があまり深刻に話すのも違う気もする。 「……キキョウが親族と縁を切ってることは、お伝えしましたよね?」  悩めば悩むほど不自然になると結論を出し、ごく自然に、それこそ日常会話のように話すことにした。思い返せば、彼が私に語って聞かせてくれたときもそこまで重い声ではなかった。私が気を遣わないようにしていてくれたというのもあるだろうが、見る限りでは過去の話として割り切れているように見えたのを覚えている。 「地元では名の知れた家だったそうです。未だに跡継ぎとかお見合いとか、そういうのが残ってる感じの。ただ、上にふたりのお兄さんがいたので彼自身は跡継ぎの候補でもなんでもなくて。……むしろ、冷遇されていたらしくて」  彼の母親が嫁いだのだと聞いた。続いてふたりの男子が産まれたときは大層喜ばれたが、三男ともなると疎まれたと。長男は跡継ぎとして育てられ、次男も家を支える存在として大切にされていて、次は女の子が産まれれば政略結婚の幅が広がる。そんな中で産まれた三男のキキョウは、産声を上げたそのときから期待外れの子どもだったのだと。いくらテストで良い点を取っても学校で表彰されても、家に一歩踏み入れれば褒めてくれる人はいなかったと笑っていた。 「高校卒業の頃にはもう小説の出版が決まっていたから、卒業式の次の日には家を出たらしいです。それと同時に縁も切っていて……」  娯楽を与えられなかった幼少期から、頭の中で物語を綴って遊んでいたらしい。それをネットで公開していたら声がかかり、いつの間にか賞を取り、あれよあれよと作家としての名を上げていた。身内を冷遇しているなんてバレたくない親族が表向きには兄たちと変わらぬ扱いをしているように見せるためにスマホは与えてくれていたおかげで彼の作品が日の目を見て、彼が解放されることにも繋がったのを考えると、唯一その見栄っ張りにだけは感謝してもいいかもしれない。 「……しかし、何も得られないなんてことはないだろう。話くらいはしてくれるかもしれない」 「それが、今はもっと状況が悪いんです。……数年前、お兄さんがふたりとも事故で亡くなりました」  大雪が降ったクリスマスの翌日、大破した車が崖下で見つかった。どこから聞きつけたのか彼のスマホに父親からの着信があり、兄の訃報を知った彼は葬儀に出ないことを告げて電話を切り、その日のうちに番号の変更をしに行っていた。連絡をとっていた地元の友人がいたからそこから漏れたのだろうと、寂しくなると口にはしつつも躊躇いのないその様子は薄ら寒くもあったが、それほどまでに家族と関わりを断ちたい気持ちが痛いほど伝わってきた。実の兄がふたりとも亡くなって多少沈んだ顔は見せたものの、実家には戻らないの一点張りだったのだから。 「お祖母さんがご存命なんですが、どうしても血の繋がった男子に家を継がせたいらしくて、血眼になって残ったキキョウを探しているんです。私にも一度電話がかかってきたくらい」  鳥肌が立つような猫なで声で話しかけてくる女性。ただひとり残った孫に会いたいとか、せめて兄たちの墓参りには来てくれないかとか。たまたますぐ隣にいた彼の耳にも微かに聞こえたようで、氷のような表情で私のスマホをひったくると電話を切って、結局私も番号を変えることになってしまったのだ。何度も謝る彼の声はしばらく脳裏に焼きついて離れなかった。
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