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「は」  何かを言う暇もなく、手首を引かれて私たちは待機列から離れた。次の呼び込みで入場できたはずだったのに。何度か呼びかけても彼が振り向いてくれることはなく、美術館からも出たところでようやく止まった。 「ごめん。またここのチケット取るから」 「いえ、あの……なんで?」  手を離してこちらに向き直ったカガチさんはじっと私を見下ろした。少しだけ気温は上がってきたとはいえ、まだ冬から抜け出せない空気が顔の熱を冷ましていく。しきりに車が通り過ぎる音や横断歩道が通行可能だと知らせる電子音は聞こえるものの、言葉という形をとっていないだけでだいぶ良くなった。 「辛そうに見えた」  まさか。 「そんなこと、全然……」  キキョウが来たいと思っていた場所なんだから、絶対に見て回るべきだった。初めて見るものばかりだろうと、彼がその目で見たいと思った展示品に出会えたらほんの少しでも記憶が戻ったかもしれない。 「これは俺の想像だけど」  カガチさんは巻いていたマフラーをするするとほどき、目を白黒させる私の首にそれをかけて包み込むように巻いては丁寧に形を整え始めた。表情は違うものの、その様子はキキョウが私を甘やかすときと全く同じで、柔らかく香る彼の匂いが徐々に気持ちを落ち着けてくれているのがわかる。 「彼は少なくとも、無理してるあなたと来ようとしてたんじゃないと思う。だからまた今度だ。どうしてもって言うならカフェだけ行こう」  眉を下げて微笑む顔はどこか子どもっぽくて、今までで一番キキョウによく似ている。薄い唇が綺麗な曲線を描き、目の下には睫毛が影を落としていた。  しかし相変わらず低く落ち着いた声は彼のように弾まず、マフラーから離れるばかりの手が頭を撫でてくれることはない。体を引き寄せてコートで包んで、小さい子をあやすように体を揺らしてくるようなこともない。  キキョウじゃなくて、カガチなんだから。 「……行きたい、です。カフェだけでも」  やっと、自分の中で腑に落ちたような気がする。どこか清々しい気持ちと虚しさ、罪悪感を残して。 「じゃあ行こう。少しだけ歩くが大丈夫か?」 「大丈夫です。ご迷惑を、おかけしました」  迷惑ではないと否定しつつ、彼は優しく背中を押して歩き出した。来るときに気づいたが、ほとんど感覚的に歩幅を合わせてくれていたように見えたキキョウと違って、カガチさんは意図的にこちらを観察しながら歩幅の調節をしているように見える。手を繋いでいたほうが、少しは合わせやすかったりもするのだろうか。 「……実は昨日、彼の高校時代からの日記を見つけた」 「えっ?」  日記を彼が書いていたこと自体は知っていたが、そんなに前から書き続けていたのか。私は一ページだってその中身を見たことはないけれど、カガチさんは読んでいたらしい。最近のものも、昨日見つけたという高校時代のものも。本当のキキョウを知る、一番の情報源だ。 「なんとなく文章に迷いがあったようには見えなかったから、あの部屋にはなかったけれど、それより前も書いていたのかもしれない。……ただ、随分と暗かった」  点滅し始めた横断歩道の前で足を止める。 「家族に関することも書いてあった。暴力とか食べるものがないとか、そんなわかりやすいものじゃなくて、徐々に心を凍らせていくような陰湿な虐待だった。母親だけはそうしたことをしない代わりに、守られることもなかったらしい。良くも悪くも無関心。よく彼が歪まなかったと思う」  明確な言葉にすらしないものの、その残虐性は冷めきった彼の表情が物語っていた。自分のこととしての実感が薄いのだろう、キキョウに比べて感情がわかりやすい。  こうして恋人が自分では晒してくれなかった部分を知れる手がかりを残してくれたことは救いであるとともに、当時の彼が縋れるのは文章だけだったのだと感じさせられた。もっと踏み込むべきだっただろうか、私は。 「彼の文章が明るくなり始めたのは、あなたと出会った頃からだ。今から五年前、あなたがまだ高校二年生のとき。図書館で会ったんだって?」  気がつけば五年も経っていたのか。初めて会った高二のとき、彼は確かに少し暗かったかもしれない。よく笑う人だとは思ったけれど、いつもどこか困ったような微笑みで、からからと笑うようになったのは付き合い始めてからだった気がする。 「そうです。図書館で初めて見かけて……正直、カッコイイ人だなって思いました。読んでる本が気になって、向かいの席からこっそり表紙を見て、同じ本を借りたりして」  懐かしい。おそらく年上であるということ以外何も知らない彼が座っていると、浮き足立って向かいに腰を下ろした。私は読書か受験勉強のどちらかをしていたけれど、彼は必ず本を読んでいて、読み終わったらまた別の本を手に戻ってくる。話しかける勇気はなかったけれど、当たり前に同じ席へ戻ってくることが嬉しかった。
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