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「一目惚れだった?」  横断歩道の信号が変わり、ぞろぞろと人の波が動き始めた。震える心臓を抑えるために彼が差し出してくれた手を掴む。どうも彼が車の前を歩くのが落ち着かなくて、こうして触れさせてもらう許可は事前にもらっていた。大きくて少し固く、温かい手は握っているだけで凍ったような胸がほぐれていく。 「……もう、大丈夫です。ありがとうございます。…………ええと、一目惚れ、ってほどでもなくて……好きになったのはもうちょっと後でした」  当時を思い返しながらキキョウに恋した話をするのは気恥しいが、どこか楽しい気持ちもある。こういう風にカガチさんと話せるのは初めてかもしれない。 「少し体調が悪かった日、仮眠のつもりで思い切り寝ちゃったときがあったんですけれど、彼、起こしてくれて。しかも閉館時間じゃなく、私が帰らなきゃいけない時間に。『いつもこの時間で帰りますよね。体調が悪いなら、僕でよければ送って行きましょうか』って」 「……送り狼とか、考えなかったのか」 「優しそうな狼だしいいかな、って……」 「警戒心のない……」  呆れたように笑う彼に笑いを返して、大切にあの情景を想像する。困ったように口の端を上げるキキョウは本当に家まで送ってくれて、そこで初めて名前や四歳上だということ、彼の方も私の存在を覚えていてくれたことを知った。今思えば、その頃の声は今のカガチさんと似ていたかもしれない。  夕暮れの中をふたりで歩いたその時間だけ私も少し大人になったかのようで、あの数十分の記憶は大事な大事な宝物だった。空の淡い紫色も初夏の涼しい風の匂いも、思ったより広い肩幅にときめいたことも、全部覚えてる。年上補正なんてなくても彼は素敵だったし、同級生が読んでない小説の感想を言い合えるのは本当に楽しかった。 「じゃあそのとき?」 「……はい。好きになったんです。単純すぎますよね」  その後も彼は毎回私を送ってくれた。話しているうちによく笑うようになって、素はこんなに明るい人なんだと思った。桔梗の花より太陽の方がずっと似合いそうな人。何かと理由をつけてコンビニに寄ってはアイスやらホットスナックやらを奢ってくれるものだから、妹のように思われてるのかと不安になったことはあったけれど、それ以上に一緒にいれるのが嬉しかった。  進路について話したときだった。学年が上がって少しした頃、家から少し離れた大学に行くからひとり暮らしになるかもと不安を口にする私に。 「『そこなら近いから、僕の家から通いなよ』って」 「……まだ付き合ってなかったんだよな?」 「はい。そのときに初めて告白されて、卒業までに家が決まらなかったらおいでって。……遠慮なく転がり込んじゃいました」  父は頑として譲らなかったが母はかなりあっさりと許可をくれて、紆余曲折あったものの、結果として私の家まで足を運んだ彼が信用材料を並べ立てて父を丸め込む形に落ち着いた。結婚までは許してないと悔しがる父は、それでもすっかり彼の人柄に絆されたように見えた。  今もふたりで住んでいる家は最初こそ質素で最低限といった家具しかなかったし、本気で恋愛に身を焦がすのも初めてだったし、もちろん男の人とふたりきりで夜を越した経験もなかったが、とにかく優しい彼が私のペースに合わせてくれたおかげでずっと幸せに満ちていた。少なくとも、両親が心配するようなことはただの一度もない。 「告白、緊張したって書いてあったな。あなたに会ってから楽しそうだった文章が、そこだけ弱気だったよ。……あぁ、ここだ。入ろう」 「えっ、あっ、はい……!」  あんなに余裕たっぷりに見えた彼が緊張していたなんて話、初めて聞いた。もっと深く聞きたかったが、カフェの戸を開けたカガチさんに促されて中へ入る。  温かく柔らかい空気に包まれながら予想よりも空いていた店内を見渡すと、内装はログハウス調になっているようだ。目を残した木肌が美しく、案内された席も木製のテーブルとロングチェアが揃っている。そんな中、クッションだけ色とりどりに不思議な柄がついていた。図形がいくつも噛み合ったような、民族的という言葉のイメージに当てはまるような模様。  規模がそこまで広くない上辿り着くまでに少し細い路地へ入ったことを考えると、隠れ家的コンセプトのカフェなのかもしれない。 「気に入ったみたいだ」  メニューを渡しながら笑いかける彼に頷く。私はパステルカラーに彩られた中で盛りに盛られたスイーツを食べるより、静かにクラシックの流れる喫茶店でホットケーキを食べる方が好き。ただ、ケーキの種類は多い方が嬉しいけれど。  厚い表紙をめくって目を通す。予想を裏切らずコーヒーのメニューが多かったが、紅茶もかなりの数を取り揃えていた。それからサンドイッチやトーストの軽食、後ろの方へデザートの品名が並んでいる。ケーキ類だけでなくパフェやアイスの種類も豊富だ。
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