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三文字の勇気
「あみ、おはよう」
ぼんやりと目を覚ましたあみに、そう声を掛ける。
彼女は起き上がったものの、僕の全てを受け入れすぎてベッドに座り込んで動けずにいた。
僕は最低だ。こんなにいい子を弄んだ。さらった女の子を散々犯したも同然だ。どうせ続く未来がないなら、もっと最低なことをして別れよう。
「僕のことを忘れないように印をつけさせて」
あみは薄くうなずくだけで、何も言わない。言葉はわからないはずなのに、わかっているかのように僕を見て微笑む。
バッグの底に入っていた太い安全ピンを取り出すと、何の抵抗もしない彼女の耳朶を摘んでそこに突き刺した。
少し呻いた声と共に、右の耳朶から流れ出す血。
僕は自分のピアスを外し、血が滲むその場所に差し込んだ。
『……君は僕のものだ』
だから、お願いだ。僕のことを忘れないでくれ。
車の中で何時間も一緒にいたのにほとんど話さなかった。
ただずっと手を繋いでいた。車が赤信号で止まる度にキスをした。そうしないとおかしくなりそうだった。
レンタカーを返す場所まで戻ってきた。とうとうお別れの時間だ。
『写真を送るから住所を教えて』
僕がそう言うと、あみはメモに書いてから破いたものを渡してくれた。
最後になって初めて、あみのフルネームを知った。電話番号もメアドもSNSのアカウントも、お互いに訊かなかった。
これでいい。
あみの耳に僕のピアスが光っている。
『……またあの湖に行こう』
『うん、またいつかね』
本当の気持ちだけど叶わないことも知っていた。君は今どう思っているんだろうか。このまま僕と一緒に、来てくれてもいいのに。
バイバイ、と一言言って、あみが振り向き、歩いていく。叫び出したい気持ちを手を握りしめて堪えた。
人混みで姿が見えなくなるまで僕は彼女を見送った。
あみは一度も振り返らなかった。
あの三日間から数ヶ月して、僕はやっと現像した写真をあみに送った。
すぐ発送する気になれなかったのは、自分の気持ちを確認するのに時間がかかったからだ。ただの寂しさや慰めや欲情からあんなに彼女を抱いてしまったのか、それともそうではなかったのか。
写真を見ても、まるで夢の中の出来事のようで自分の気持ちがわからなかった。
覚えているのは彼女の唇や舌や肌や髪、全ての感触と、甘い匂いと、耳朶に針を通した時のプツリとした手ごたえだった。
あみがどこの大学に行き、何を専攻していて、家族はどうしているのかも知らない。お互いに連絡先を交換しなかった。それがお互いへの礼儀のように思った。
けれど、僕は自分で矛盾に気づいた。
彼女の耳朶に安全ピンの針を刺し、僕のピアスを無理矢理つけた時に
『君は僕のものだ』
と思わず言った時に感じた気持ちは嘘ではなかった。
あの時、彼女は僕のもので、僕は彼女のものだった。
あのまま彼女をお前の元に連れて帰れば良かったんだ、ともう一人の自分が言う。連絡先すら渡せなかったのは、お前が小さい自分を守ることを優先させたからだ。また誰かを失ったら生きていけないと怯えているからだろう、と。
全くその通りで、僕は自分を保つので精一杯だった。
また一人になるくらいなら、最初から一人の方がいい。
もう会えないと思うけど、写真と気持ちだけは伝えよう。風景と、僕から見たあみを切り取ったモノクロの写真。それと彼女が読むかどうかわからない三文字のハングルを添えて、やっと送ることができた。
"사랑해"
愛してる。
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