『君だけのために』

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 ピアノを開けっ放しにしたまま、長屋君は私の手を引き音楽室を出た。 「もしもし?何?あぁ、(わり)ぃ今…うん」  早足だけど、さっきとは全然違う。私の足元を気にしながら歩いてくれていた。 「あの、私はいいから早く行った方が…」 「ダメ。却下」 「え?」 「離したらいなくなるから」 「そういう所、本当に…良くないよ」 「何?」 「好きな人いるのにこんな風にしないで」  想いと一緒に我慢していた涙が零れ落ちた。 「ごめん。でも俺、瀬戸さんが好きだから」 「…」 「はやめて俺の事好きになってよ」 「……はぁ?」 「瀬戸さんが他のヤツといるの見てるだけでムカつく」 「好きな人…いや、私じゃなくて長屋君の」 「ちょっと瀬戸さんバカなの?俺今(こく)ったけど…」 「私、バカって言われたの初めて…」 「いや、違う‼︎ごめんて‼︎俺が好きなのは瀬戸さんだから…俺にしなよ」 「…」 「俺に、してよ」 「…」  エントランスで立ち止まる。  BGMは大音量のバンドの演奏。 「これからもあの歌、一緒に歌いたい」  耳元で囁く長屋君の声に胸が熱くなる。 「だってあの歌は、長屋君が好きな人の事を想って作った歌だって…」  顔を上げると左手で口元を覆って、真っ赤になった長屋君が目を泳がせていた。 「誰に聞いた?」 「…朝美」 「あぁー…あ、うん。はいはい」 「長屋君、私としか歌わないって言ってたのに…みんなで歌ってた」  今さら何ヶ月も前の事を引っ張り出してきて言うなんて、我ながら嫉妬深くて嫌になる。  情けなさに、涙が溢れ出した。  長屋君が包み込む様に強く私を抱きしめた。  私も、同じ力で抱きしめ返した。 「瀬戸さん、俺の事…」
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