雨の女と魔法少女

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「!」  息を呑む音が聞こえた気がした。雨の女が息を呑んだとは考えづらい。とするならそれはミラクルクルミンのものだろう。顔に当たる雨は少し強くなっているように感じた。僕は雨の女のことを考えずにただ良い感じの棒を目掛けて走る。大股で行って僕の脚なら滑り台の先から三歩か四歩。雨の女は右手側に多分、五歩か六歩。ミラクルクルミンは更にその二歩くらい向こう。  雨の女がミラクルクルミンの表情に気づいて、あるいは後ろの物音に気づいて振り返るのにほんの一瞬、僕がいることを把握するのに一秒。野生のような本能でもって反射で飛び出すならもっと速く僕のところへ駆け寄ってくるはずだ。僕はそれまでに良い感じの棒を拾ってミラクルクルミンに叫ばなくてはならない。  僕は右手を伸ばして良い感じの棒を掴んだ。雨で湿っている。焦りからすっぽ抜けそうになったのを左手も伸ばして掴まえて、雨の女とミラクルクルミンがいる方を振り返った。 「──!」 「おにーさん!」  血走った、目だった。彼女は何をそんなに血眼になっているのだろう。公園内の街灯を背にした彼女の表情は陰になってよく見えないのに、その目だけは相変わらず爛々と燃えていた。  怪異だ、とるぅと君は言った。人の想い、人の噂、こうだったら良いのにと思い描かれた夢想、そういうものの集合体だと。いわゆる都市伝説だと。  怖い噂、というものは大体が怪談だ。この雨の女もそうだろう。元が何だったのか、始まりが何だったのか、僕には判らないけれど。最初はもしかして、本当にただ話の頭と終わりと繋げただけのものだったかもしれない。それに尾鰭がついて怖い噂として広まり、人が消えるほどの怪談になり、そして──怪異と呼ばれるようになったものだとしたら。  走馬灯ってもっと、人生を思い返すものだと思ってた。この雨の女が元は何だったかなんて、そんなことを最後に考えるなんて僕自身も思いもよらなかった。そう思うと少し、笑いが込み上げそうになる。引き攣った口の端は上がり切らず、僅かに開いた口からはヒュッと悲鳴になり損ねた声が漏れただけだったけれど。  雨の女の腕が伸びる。最初に僕に伸ばした腕。ミラクルクルミンが護符を貼って解いてくれたその腕が再び僕に伸びた。あぁ、この腕に捕まれば。僕はもう半分もきっと……。 「くるみ、お前の仮のステッキだ! 暗黒の魔女──オブスクルム・マガの遺物! お前になら使える! 信じろ!」 「るぅと君!」  目の前にふわふわが飛び出してきた。血走った魔眼を物理的に視界から遮り、僕を現実に引き戻す。そのふわふわの腕が引き千切られ、中の綿(ふわふわ)が宙に舞うのが見えた。テディベアの名前を呼んだのはミラクルクルミンだけではない。僕の口からも悲鳴にも似た悲痛な声が出ていた。 「……ッ! おにーさん、そのステッキちょーだい!」  こちらへ駆け出していた黒のブーツが一瞬すくんだように見えた。でもすぐに自身を叱咤するような声が惨劇を鋭く切り裂いて僕のところまで届く。僕は良い感じの棒を握り直すとミラクルクルミンに向かって投げた。雨の女は反応を見せるけれど届かない。ミラクルクルミンは地面に落ちる前に弧を描く良い感じの棒を見事に受け止め、竹刀よろしく構える。  良い感じの棒とはいえ、人相手に立ち向かうには貧相な枝だ。頬に当たれば痛いだろうけれど、様子のおかしいスーツ女を伸すには心許ない。それでもミラクルクルミンは信じていることが感じられた。仮とはいえ、るぅと君が銘打って授けたアイテムのステッキだ。オブ……何とかとかいう聞き慣れない単語だったけれど、ミラクルクルミンには分かるのかもしれない。  僕は宙を舞ったるぅと君が落ちてくるのを受け止めた。引き千切られたのは右腕だけではあるものの、何だか痛々しい。右腕の方は受け止められなくて地面に落ちている。水分を含んだ砂がついて汚れてしまっていた。  竹刀、もとい良い感じの棒、もとい、オブ……何とかという仮のステッキを構えたミラクルクルミンの放つオーラは凄かった。オーラなんて感じたこともないし見たこともないけれど、気圧され圧倒されるような感覚が僕にも解る。雨の女に向けられているそれが、その後ろにいる僕にも感じ取れるほど凄いのだ。泣いてはいないものの、るぅと君が目の前で引き千切られた瞬間を目撃したのだ。そのショックは想像して余りあった。ほんの少し一緒にいただけの僕でさえ悲鳴が出たのだ。ミラクルクルミンは……怨みに思っても仕方がないかもしれない。 「い……ったくねぇな、ふわふわすげぇ……」 「るぅと君⁉︎」  抱き止めたるぅと君が腕の中でもぞもぞするから僕は素っ頓狂な声をあげた。正直言ってちょっと、いや結構、びっくりした。確かにぬいぐるみだし、腕を引き千切られても別に痛くはないのかもしれない。僕の声にミラクルクルミンが一瞬だけ目を向ける。その目が驚きと喜びに見開かれて──その隙を雨の女は見逃さなかった。  雨の女が振りかぶった腕を下ろす。さながら野生のクマのような振り下ろし方だ。まぁ野生のクマを見たことはないけれど。  人体で最も硬い部位は歯だという話を聞いたことを思い出した。爪はどのくらいの硬さだろう。割れるし剥がれるし、そんなに強いものではないかもしれないけれど、引っかかられれば確かに痛いし眼球のような弱い部分に当たれば致命傷にもなる。  体への影響を考えていなさそうな勢いで振り下ろされる雨の女の腕を、ミラクルクルミンは仮のステッキで受け止め、いなした。目にも止まらぬ早技とはこのことかとばかりで魔法少女らしからぬ試合慣れした様子に、あぁでも愛の戦士だし、と僕は納得する。今は愛の戦士としてミラクルクルミンは戦っているのかもしれない。  仮のステッキは雨の女の腕で折れることはなく、よくしなった。雨で濡れて折れにくくなっているとか、それとももしかしてミラクルクルミンの力ということもあるのかもしれない。妄想力を魔力にするとるぅと君は言っていたし。設定だとしても思い込みの力、もとい想いの力でミラクルクルミンなら何とかしてしまうかもしれないと僕は思う。何とかしてくれ、とも願っていた。  雨の女は諦めず、何度もミラクルクルミンに向かって腕を振り下ろす。それを軽い力でいなしてミラクルクルミンはさばいた。攻撃が当たらないことに雨の女はイラついているのか、何度も咆哮を繰り返す。言葉にならないそれはヒステリックに叫んでいるようにしか見えなくもない。あまりの様子のおかしさや僕たちに異様に執着することから尋常ではないと感じるものの、姿形が変わるとか異常に手足が伸びるとか、そういった分かりやすい異形感がないのだ。理性を失った人間と言われても納得する。それとも怪異とは、そういうもの、なのだろうか。だからああやって、現実に人の振りをして突然現れるのだろうか。  コスプレの魔法少女や高性能AIを搭載したテディベアもまぁ、よっぽど様子がおかしいとは思うけど。それでも彼らは僕を助けようとしてくれる。あのスーツの女が怪異であれ様子のおかしい人間であれ、助けようとしてくれる方を信じるのは人間の心理だと思う。 「なぁ、魔法少女に必要なものが何か知ってるか」  るぅと君が僕にだけ聞こえるような声で話しかけてきた。え、と僕は二人の戦いからは目を離せないまま問い返す。雨の女とミラクルクルミンの攻防は五分五分に見えた。怪我をするような場面はないものの、ミラクルクルミンは攻撃に転じられないように見えたのだ。雨の女がひっきりなしに腕を振り下ろしているから、ということもあるかもしれない。大振りな動作から隙ができやすいのではと素人の僕でも思うけれど、ミラクルクルミンはずっと仮のステッキでそれを弾いているだけなのだ。  どうして反撃しないんだろう。まぁ良い感じの棒で反撃しようと思っても難しいかもしれないけど、でもあれは今ミラクルクルミンの中ではるぅと君から授けられた仮のステッキのはずだ。オブ……何とかという何だか凄そうな力を持っているだろうステッキのはずなのだ。攻撃くらいわけはなさそうなんだけど。 「……誰かを守る正義の味方、あいつ風に言えば『迷える子羊の味方』が力を出すためのお約束だ」  るぅと君はしっとりと言う。そう言われても僕には判らないから、え、ごめん、何、と問い返したら盛大な溜息が返ってきた。 「今のこれはリアルイベントみたいなもんなんだよ。あいつに必要なものって言ったら応援だろ、応援!」 「あ、ごめん、行ったことなくて」 「行ったことなくても知ってるもんじゃねぇの?」  るぅと君が心底驚いた声を出すから僕は苦笑した。言われれば、まぁ。結びつかなかっただけと言ってしまえばそうだけど、何だか少し照れ臭い。そんなことを言っている場合じゃないことは重々承知とはいえ、魔法少女を応援することになるとは思わなかった。 「が、がんばれー……!」 「声が小さいぞ〜? もっと大きな声で〜!」 「楽しんでるでしょ、るぅと君……」  自分でも届かない声量だったなとは思う。るぅと君がお約束のようにそう言う声にからかいを含んでいることはすぐに判った。恨みがましく抗議はしたけど、るぅと君には痛くも痒くもないらしい。まぁ、腕が千切れても痛くないぬいぐるみなんだから、これくらいで痛むようなものではないのかもしれない。 「が、頑張れー!」  雨の女がこちらを振り向いて標的を変えてもおかしくないんじゃないか、と思いつつも僕は先ほどよりも声を張る。はいもう一丁、とるぅと君が合いの手のようにやり直しを要求してきた。ミラクルクルミンは僕の声に、それともるぅと君の声に反応してまた一瞬だけ目を向けた。何だか瞬間的に体が熱くなった気がしたけれど、彼女の表情が嬉しそうに見えて、僕は再び口を開いた。 「頑張れー! ミラクルクルミンー!」 「聞こえたか! お前の守る子羊の声が!」  るぅと君が今度はミラクルクルミンに合いの手のような問いかけを投げる。タイミングを測ったようなそれに、ミラクルクルミンが頷いた。大きく一歩、後退り距離を取って仮のステッキを構え直す。ミラクルクルミンの動きが予想外だったのか、雨の女はたじろいだように見えた。空いた距離を詰めるか留まるか、悩んだのかもしれない。その隙をミラクルクルミンが見逃すはずはなかった。 「ぱーふぇくとどりーみーこずみっくあたーっく!」  最初の登場時とは違う技名を叫んでミラクルクルミンは雨の女へ向かって踏み出す。躊躇いのないその踏み込みはまるでそう決められていた動きのようで、ひとつの舞台でも見ているかのような心地だった。もし魔法少女が出るヒーローショーを子どもの頃に見ていたとしたら、これはそんな既視感だったかもしれないと思う程度には。  ミラクルクルミンは仮のステッキを雨の女の胴に入れた、ように見えた。ムチのようにしなる仮のステッキはビュンと風を切る音を響かせ、パシンと確実に入った音を続けた。もう音だけで首をすくめるほどの疑似的な痛みを感じた気がする。自分に当たったわけではないのに咄嗟に動いてしまった。  試合ではないから一本を入れたところで勝敗が決するわけではない。ミラクルクルミンはそのまま雨の女を通り過ぎ、背後に回る。シャツの背と、その中に手を入れて護符を貼ったとミラクルクルミンは話していたけれど、雨の女は慌てた様子で振り返った。怪異でも護符を貼られたことがトラウマになったりするんだろうか。それとも単純に背後を取られたことへの本能的な恐怖だろうか。切羽詰まったような表情を浮かべていて、僕は思わず息を呑む。  ミラクルクルミンはそんな相手の様子には構わず、振り返ることも想定内だったのか懐から出していた護符を雨の女の額に叩きつける。髪の毛が張り付いていた雨の女の額というか鼻に護符はダイレクトに叩きつけられ、雨の女が激しい悲鳴をあげた。 「ぎゃああああっ!」  最初にミラクルクルミンが護符を貼った時と同じような悲鳴だった。本当に霊験あらたかなありがたいお札なのかもしれない。効いている、と僕は目を見開いた。ミラクルクルミンは一枚では満足せず、護符を剥がそうと上げられた雨の女の腕にも素早く叩きつけた。再度、悲鳴があがり雨の女はその場にうずくまる。痛みでもあるのだろうか。わなわなと震えて次の瞬間には逃げ出した。 「あ、こら、待て!」  るぅと君が僕の腕の中でじたばたと暴れたけれど、ぽてぽてとしか走れない足であの逃げ足に追いつくことが不可能なのは試さなくても判る。まぁあちこちに護符は貼ったし、そう長くもないか、とるぅと君は溜息と共に追うことを諦めたようだった。 「倒した……ってこと……?」  僕の問いに、まぁそうだな、とるぅと君は答える。ざぁ、と大きな通りを車が走る音が聞こえた。誰もいなかった、その狭間とやらから抜け出したのかもしれない。怪異の領域から出られたなら僕はそれで良かった。 「あいつの札は本物だって言っただろ。腕にも貼ったんだ、そう簡単に剥がせるもんじゃねぇ」  あの悲鳴が演技とは僕にも思えなかった。演技をする利点もない。そっか、と僕は胸を撫で下ろす。どっと恐怖よりも疲労が押し寄せてきた感覚に今すぐ座り込んでしまいたい気持ちになった。ベンチは濡れているから家に帰るまではやめておこうと思う。 「結局お前に渡した護符は使わなかったな。まぁお守り代わりに持っておけよ」  僕はミラクルクルミンの描いた魔獣、もといキュートなクマさんが描かれた護符をジーンズの尻ポケットに入れていた。多少折れても効果はある、と思う。別に折ったらダメとはるぅと君は言わなかったし。 「うん、あぁ、助かったんだ……。ありがとう、二人とも」  僕は抱えたるぅと君と、こちらに駆け寄ってくるミラクルクルミンにお礼を言った。ミラクルクルミンはさっきまでの凄みは何処へやら、勝ったってこと? 勝ったってこと? と繰り返している。 「あぁ勝ったよ。退魔の巫女らしい力だった」  るぅと君の答えにミラクルクルミンの表情はパッと明るくなる。それから嬉しそうに破顔する様子は女子高生らしい元気さでいっぱいだった。 「えへへー。闇より出でし退魔の巫女、愛の戦士! その実態は魔法少女、ミラクルクルミン! だからね!」  ビシ、とミラクルクルミンはポーズをキメる。左腕を元気良く天に掲げ、右掌を見せて顔の横で大きく広げるそれは彼女らしい決めポーズだ。仮のステッキをどうしようかちょっとだけ悩む素振りを見せ、結局は左手に持ち直して天に掲げた様子からは乾いた自作のステッキが出来上がってから再考する可能性があったけれど。 「おにーさん、家まで送る?」  ミラクルクルミンに尋ねられ、僕はかぶりを振った。家は近いし、女子高生に送ってもらうのは何だか格好悪い。むしろ僕の方こそミラクルクルミンを送ってあげないといけない気さえする。 「大丈夫。僕の方こそ送ろうか? この辺で神社って言えば神木のとこかなって思うけど……」 「ど、どうしておにーさんが知ってるの!」  ミラクルクルミンは目を丸くして、僕もうっかり口を滑らせて、四つの目がテディベアに向いた。あ、ごめん、と僕は謝り、るぅと君は相変わらずのふわふわ無表情フェイスであー……と口を開く。気まずそうな声ではあった。 「俺が喋った。まぁ別に怪異じゃねぇし大丈夫だろ。個人情報をどうこうするやつじゃねぇだろうし、するなら犯人はこいつしか有り得ない。家を割っておくか?」 「ホシを割るみたいに言われても」 「うーん、まぁ、魔法少女の正体を知る人がいてもいっか! サポートキャラになってくれるかもしれないし!」  え、と正直思った。サポートって。今後はもうああいう目に遭うのはごめんだし怪異が出たと聞いて駆けつけるのも避けたい。僕に何ができるわけでもないし。着替えの場所としてくらいなら助けてあげられるかもしれないけど、コスプレ女子高生が出入りしていることがバレたら社会通念上まずいことにもなりかねない。でも助けてもらっておいてすぐにそんなことを言うのも憚られるから黙っておいた。 「まぁサポートの能力があるかは疑問だけどな。言い触らさねぇだろうし、言い触らしたところでだ。無害だろ。それにお前、明日の小テストも何とかしないとなんねぇだろうが。さっさと帰って少しでも勉強しろ」  るぅと君の小言にミラクルクルミンがえー! と抗議の声をあげた。迷える子羊を助けたばっかりなのにー! と言うから僕はそれは本当にありがとう、と思うし、本業は学生だろうがと言うるぅと君の言葉にもそれもそう、と思う。怪異が出たら深夜でも出てくるのだろうか。あまり遅い時間に出歩かない方が良いとは思うけど、助けてほしいという願いを彼女が無視できるとも思えなかった。  見ず知らずの僕を、助けてくれたのだから。 「次のテストの点が悪かったら家庭教師つけるか塾に行くかしろって言われてるじゃねぇか。あ、もしかして家庭教師として役に立つか……?」 「え」  るぅと君のボタンの目が僕を向いたから僕の方は目を丸くした。いや、え、サポートって……そういう意味? 「高校生の勉強を見るのは大変だよ。学力によるし」 「こいつを見ていて学力が高いと思えるか? 何とかと天才は紙一重って言うからある種の天才タイプではあるかもしれねぇがな……小学生に教えてると思えば良い。報酬に金銭をせびられるよりマシだろ」 「報酬とか要求するんだ……」  魔法少女を慈善事業にする気はねぇな、とるぅと君は言う。当のミラクルクルミンはきょとんとしているけれど、まぁ助けてもらっておいて何も返さないというのも気が引ける。家庭教師としてのバイトはそういうところに所属していないから多分できないけど。 「まぁ、時々勉強を見る程度なら……お試しでやってみるのはその、恩返しとしてはあり、かな……」 「契約成立だな」  るぅと君の方が乗り気で二つ返事だった。何処でとかいつとか、そういうのはまた後日、ということにして僕達は連絡先を交換しあう。さっきは圏外だったスマホもすっかり良好な通信状態に戻っていた。 「おにーさんが見てくれるなら、ちょっとだけ頑張る……」  ミラクルクルミンは不服そうではあるものの、るぅと君に説得されて渋々頷いた。お試しだから、と僕も苦笑する。それじゃ、と僕はミラクルクルミンにるぅと君と千切れた腕を渡す。ちゃんと縫えるかなぁ、とミラクルクルミンが心配そうにするからそれも僕が直すことになった。授業でやった程度だけどボタンはつけられるし、まぁ何とかなると思う。右腕だけムキムキになっても赦してほしいと先に謝っておいた。  タコ足児童公園で別れて、僕は自宅へ戻る。途中でコンビニに行くのか人とすれ違った時は本当に人間だろうかと思って警戒したけれど、僕と同じで近所に住む大学生風の人だった。僕には興味もないようでスマホの画面を見ながらすれ違う。いつでも走り出せるように警戒しながら歩いて距離を取った僕はその人が角を曲がるのを見て盛大に息を吐いた。しばらくは夜に出歩くのが怖くなるかもしれない。  ひとり暮らしのアパートに帰って電気を点け、いつもの光景を目にしてやっと安堵感が胸に広がった。厳重に施錠して僕は着替えもせずにベッドに倒れ込む。雨の中を走っていたせいで泥が跳ねていると思うけどもうそんなことを考えるのも億劫だった。泥のように眠りたい。意識が睡魔に引っ張られるのを感じながら、僕は瞼を閉じた。 * * *
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