伸明 9

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「…五井に手玉に取られたって、どういう意味ですか?…」  私は、聞いた…  聞かずには、いられなかった…  「…アナタの癌の治療よ…」  ユリコが言った…  思いもかけないことを、言った…  「…私の癌の治療が、どうか、したんですか?…」  「…寿さん…オーストラリアに癌の治療に行ったでしょ? 五井が、費用を負担してくれて…」  「…ハイ…行きました…」  「…アレは、五井の罠…」  「…なにが、罠なんですか?…」  「…アナタとナオキを引き離す罠…」  ユリコが、言った…  これまで、考えたことのないことを、言った…  まさか?…  実に、まさかの言葉だった…  「…ウソ!…」  と、思わず、口に出しかけたが、言わなかった…  口に出さなかった…  代わりに、  「…」  と、沈黙した…  その方が有利と判断したのだ…  沈黙した方が、有利と判断したのだ…  その方が、次に、ユリコがなんと言うか、聞き出しやすいというか…  自分のことではなく、ユリコが、なにを言うか?  それが知りたい…  そんな気持ちだった…  そして、そんな私の心の内をユリコは、見抜いていた…  あっさりと、見抜いていた…  「…どうしたの? …寿さん?…」  ユリコの問いかけに、私は、黙ったままだった…  「…」  と、沈黙したままだった…  「…ウソだと思った?…」  と、スマホの向こう側から、私をからかうように、言う…  私は、なんて、答えていいか、わからなかった…  ありえない話ではない…  まずは、そう思った…  絶対、ありえない話ではない…  五井は、私とナオキの関係に気付いている…  五井=伸明も、和子も、私とナオキの関係に気付いている…  私とナオキの関係というのは、男女の関係ではない…  そんなことは、どうでも、よく、ナオキと私は、同士だということだ…  いわば、戦友というか…  共に、FK興産を大きくした自負がある…  FK興産をここまで、成長させた自負がある…  FK興産は、創業して、十五年超…  私が、高校生のときに、アルバイトとして、FK興産の前身の会社に、入った…  そのときにいたメンバーは、今は、ほとんど、いない…  数えるほど…  片手の指の数にも、満たない…  だから、FK興産が、大きくなる過程を、社長のナオキと共に、見てきた自負がある…  私は、経営には、素人だから、会社の経営には、口を挟んだ記憶はないが、それでも、創業当時から、ナオキと共にいた…  プライベートもパブリックも、いっしょにいた…  だから、ナオキが、なにを考え、どう行動するのか?  間近に見てきた…  だからだろう…  私は、FK興産の成長物語を、ナオキと共に、間近に見た思いがある…  だから、同士…  ナオキと私は、同士…  戦友といっていい、同士だった…  そして、もし、和子あるいは、伸明が、ずっと前から、FK興産の買収を狙っていたとしたら、まずは、私と伸明を、別れさせること…  私と伸明を別々にするのが、いい…  なぜなら、伸明にとって、私は、大げさにいえば、精神的支柱…  伸明は、私を頼っている…  それは、FK興産の経営うんぬんではなく、ただ、私といると、伸明は、安心するのだろう…  私といると、ホッとするのだろう…  プライベートでは、いっしょに、暮らさなくなったが、会社では、いっしょだった…  だから、いつも、いっしょ…  片時も、離れたことはない…  が、  それを離せば、どうなるか?  ナオキが、相談する相手が、いなくなる…  ナオキは、いつも、私を頼りにしていた…  その私が、ナオキの元から消える…  すると、どうだ?  ナオキが、相談する相手が、いなくなる…  ナオキが、愚痴をこぼす相手がいなくなる…  そんな状態で、経営に黄信号が灯ったFK興産の買収を持ちかけられでも、したら、どうだろうか?  当然、心が、揺らぐだろう…  FK興産の株の売却を考えても、おかしくはない…  なぜなら、ナオキの周囲に、相談できる相手が、いないからだ…  相談できる相手=私が、いないからだ…  だから、冷静に判断できない…  そういうことだ…  そして、それを、もし、狙っていたとしたら?  ただただ、恐ろしい…  ただただ、恐れ入る…  五井は、相撲で言えば、横綱…  世界中に名の知れた、大企業グループだ…  だから、横綱相撲をとるかと、いえば、それは、当てはまらない…  ビジネスの世界は、弱肉強食…  弱いから、負ける…  隙を見せたから、負ける…  そういうことだからだ…  だから、今、ユリコが言ったことが、本当だとしても、驚きは、なかった…  いや、  驚きは、あった…  が、  それ以上に、油断があった…  私とナオキに油断があった…  まずは、それを、悔いなければ、ならない…  伸明と和子を呪うのではなく、私とナオキの油断を悔いなければ、ならない…  私は、そう、思った…  私は、そう、考えた…  そして、そんなことを、考えていると、  「…寿さん…驚きで、言葉も出ないようね…」  と、スマホの向こう側から、ユリコが、からかうように、言った…  「…五井は、狡猾よ…」  「…狡猾? …なにが、狡猾なんですか?…」  「…諏訪野伸明…五井家当主…彼は、寿さんを篭絡(ろうらく)したでしょ?…」  「…篭絡(ろうらく)ですか?…」  「…寿さんを好きなように、見せかけた…おかけで、寿さんは、ポッとなって、五井の狙いを見抜けなくなった…」  「…」  「…将を射んとする者はまず馬を射よ、の典型ね…」  ユリコが、笑った…  私をあざ笑った…  が、  私は、笑えなかった…  いや、  ユリコを怒れなかった…  事実、ユリコの言う通りだったからだ…  金持ちで、長身のイケメンの伸明に、私は、ポッとなっていた…  まるで、少女のように、ポッとなっていた…  だから、仮に、今、ユリコが言ったことが、真実だとしても、気付かなかった…  伸明にポッとしすぎて、気付かなかった…  そういうことだ…  いわば、私の思考が、停止していた…  私が、伸明にポッとするあまり、思考が停止していた…  普通なら、そんなことは、ありえない…  伸明は、長身のイケメンだが、伸明に負けないほどの、長身のイケメンは、この世の中に、ごまんといる…  現に、ナオキは、伸明に負けず劣らずのイケメンだった…  が、  財力が、違う…  出自が、違う…  生まれが、違う…  日本といわず、世界に知られた五井…  その当主だ…  だから、ポッとなった…  つい、ポッとなった…  所詮は、身分違いの恋…  そもそも、伸明が、私をホントに、好きか、どうかも、わからない…  が、  伸明が、私に気があるのは、たしか…  たしか、だ…  だから、ポッとなる…  年甲斐もなく、ポッとなる…  冷静に考えれば、私のような身分の者を、伸明が相手にするわけはない…  きっと、一度か、二度、あるいは、それ以上でも、何度か寝て、それで、終わりだろう…  おそらくは、私と寝るのが、目的…  あるいは、その目的すら、怪しい…  なぜなら、伸明ほどの地位の者なら、私より、もっと、若くて、キレイな女を、簡単にゲットできるからだ…  だから、私に価値があると、思うのは、思い込み…  私自身が、思い込んでいるに、過ぎない…  たしかに、私は、自分のルックスに、自信はある…  が、  同時に、おおげさに、言えば、自分の限界を知っているというか…  自分以上の美人が、世の中に、いることも、また知っている…  とりわけ、女は、年齢…  年齢に、敏感だ…  若い時は、それほど、思わないが、さすがに、三十路を超えたあたりから、自分の若さが、なくなってきていることに、誰もが、気付くものだ…  普通に社会人をしていれば、会社で、若い新入社員を見れば、気付くものだ…  あるいは、街中で、女子中学生や女子高生を、見ても、いい…  …ああ、若いな…  と、思い、つい、自分の年齢に気付くものだ…  いつのまにか、無意識に彼女たちと、比べて、自分の若さが、なくなっていることに、気付くものだ…  そして、男…  女の私ですら、そう…  だから、同じくらいの年齢の男なら、当然、若い女の方が、いい…  そう、思うのが、手に取るように、わかる…  だから、それは、同じ…  伸明も、同じだ…  まして、伸明は、四十代…  私より、十歳は、年上…  ならば、余計に、若い女が、好きに違いない…  歳を取れば、取るほど、若い子が、好き…  これは、男女に違いはない…  おそらくは、自分が、若さをなくしたゆえに、若い異性が、好きなのだろう…  自分が、若ければ、取り立てて、若い異性に興味はない…  なぜなら、自分が、若いからだ…  だから、相手の若さに、興味はない…  が、  なくしてみて、初めて、自分が、相手の若さが、羨ましくなる…  そういうことだ…  そして、とりわけ、女は、そう…  男より、若さが、大事だ…  最近、アメリカの某大物司会者が、  「…女は、四十を過ぎたら、価値がない…」  と、失言して、番組をクビになったと、聞いたが、これは、事実…  事実だ…  若さだけを、基準にすれば、事実だ…  私は、思う…  ただ、問題なのは、その司会者が、公の場で、それを、口にしたこと…  さすがに、それを見過ごすことは、できない…  誰もが、心の底で、  「…ああ…たしかに…」  と、思っていても、それを、口にすることは、できない…  この世の中には、本音と建前がある…  そして、公では、決して、口にしては、いけない本音があることを、理解しなければ、ならない…  そういうことだ…  そして、そんなことを、考えていると、ユリコが、  「…どうしたの…寿さん?…」  と、聞いてきた…  私は、その声で、現実に帰ったというか…  我に返った…  「…さすがの寿さんも、金持ちには、イチコロね…」  ユリコが、スマホの向こう側から、笑った…                <続く>
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