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お花見した日から1週間経ち、桜は満開を過ぎて早くも散り始めていた。
葉桜になっては興ざめとでもいうのか、先週より花見客の数は減り、屋台もちらほら程度だった。
盛りを過ぎたとはいえ、川沿いに咲く桜の花の眺めは、相変わらず讃嘆、感動、悲喜こもごもの感情を誘い出すのだった。
「桜の花が咲くと、この川が江戸時代につながっているような感じになるわ」
「そうね。まさに過去から現在、未来へ時の中を流れているのよ」
桜の花の下を歩く2人の足取りは軽かった。散りかかる花びらが、幸運を授けてくれる気がした。
さほど遠くない川沿いに長命寺はあり、寺の傍らには「長命寺 桜餅」という看板を掲げた老舗和菓子屋があった。
境内には徳川家光の腹痛を治したとされる井戸水があり、それを長命水と名付けたことが寺の名の由来になったという。
「街はすっかり変わったけど、お寺や桜並木に江戸時代の名残があるのね」
沙織が感慨深げに言った。
境内には参拝客がちらほらいたが、2人が参拝を終えて寺から出ようと本殿を振り返って視界に収めた時、そこにいた数名の中の1人に注意を惹かれた。
それもまた2人同時で、阿吽の呼吸で顔を見合わせた。
「あそこにいる人、もしかして……」
2人とも、言いたいことは同じだった。
黒っぽいジャンパーにジーンズを履いた細身の男性。服装こそ違うが、桜餅屋台の店主に似ている。
彼の屋台はもうなかったから、今ここにいてもおかしくない。
「どうする?」
と2人は目配せした。
本殿の方に戻って男に声をかけたい気持ちと、別人かもしれない、本人だとしても仕事外だから迷惑かもしれないという気遣いがもつれ合って、2人を逡巡させた。
と、屋台の店主に似た男が横目でチラッと2人の方を窺ったかと思うと、まるで避けるようにすっと別の方向に去って行った。
2人は一瞬言葉を失って硬直したが、すぐに立ち直って慰め合った。
「人違いだったのね、きっと」
「そうよね。それより、お寺の隣にある和菓子屋さんで桜餅買っていかない?」
「元祖長命寺の桜餅でしょう、いいね!」
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