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「桜餅、毎日完売したの。よかったね」
妻の聡美が、徹也に激励の言葉をかけた。
郷原徹也は、長い間念願だったお花見の屋台をやり遂げて、達成感に浸っていた。
桜餅を選んだのは、涼子と沙織に説明した通り、桜にちなんでいるからと、東西種類の違う桜餅があってそれぞれお寺を発祥にしていること、その品格ある2つの桜餅がいい意味でライバル同士であり、しかも桜の葉によってどちらも良質のものとお墨付きをもらっている。
そういった理由からだった。
早朝からの桜餅作りは、聡美もできる範囲で手伝った。
あんこを竈で炊くという古風なことをしてみたかったが、あんは和菓子屋の物を使用した。
長命寺の皮は薄く焼くだけだが、道明寺の方は蒸したりして結構手間がかかった。
和菓子店で働いた経験があるので、あんを皮に入れて形作ったりするのは得意だった。
「日曜日に私、遠くから様子を見ていたけど、女性の客が多かったみたいね。半纏とかのコスプレが良かったのかな」
「まあね。飾り職人の○○見たいと言われたよ」
「え、何それ」
聡美はきょとんとした。
「そういえば、今日長命寺にお礼参りに行ったら、お客さんが来ていたよ。小学生の母親2人連れだけど。ばつが悪くて逃げちゃったよ」
「後ろめたいっていうことはないでしょ」
「そうじゃなくて、俺、郷原徹也にとって、屋台の徹次は架空のキャラクターだから、徹次じゃない俺に話しかけられても困ると思って」
「ふうん」
聡美には、徹也の言うことがわかるような気がした。
仕事の傍ら、夢の実現のために菓子屋と交渉、桜餅作りの練習をしたり、屋台をレンタルしたり営業許可を取ったり、下準備をしてきた。
そして誕生したのが、桜餅を屋台で売る徹次であり、徹也はそのプロデューサーだった。
思った以上に評判が良くて、徹也はおおむね満足していたが、ただ、桜餅を包む桜の葉を神代桜だと称したのは偽りだった。
それは、菓子店にある大島桜の塩漬けだった。日本最古の桜の葉を使うことを思いついたのは正月頃で、桜の葉は散り尽くしていた。葉が生えるのは花見の時期の後と気付いて、断念したのだった。
それでも客たちがさすがに神代桜の葉っぱは違うわねと称賛してくれて、申し訳ない気持ちになった。
桜餅が美味しかったとすれば、それは彼の努力も寄与しているだろうが、美しい桜の花が視覚から味わいをつけてくれるのだと、徹也は思った。
桜の花を眺めながら食べれば、なんでも美味しさがひときわ増すのだろう。
しかし、来年は神代桜の葉を使ってみよう。それには山梨まで行って、葉桜になった桜の葉を採ってきて、塩漬けにして冷凍保存しなくては、と徹也の想いはすでに来年のお花見へと馳せていた。
川岸の桜並木の桜の花は散って、川面に落ちて花筏となり、灯篭流しのように川を下って、あの世へ流れて行くのだろう。
そして来春甦って、再び桜の木に淡いピンクの花を咲かせるのだ。
徹也の脳裏には、彼の作った桜餅を食べながら花見をする人たちの笑顔が満開に咲き誇った。
(了)
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