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ドクンッ。胸が高鳴る。
けど、だめでしょ。以前ならともかく、武琉さんとは不倫になってしまうと知ったのだから、こういうのは完全にアウトだよね。私は武琉さんの腕の中でもがく。
「どうしたの? 優真ちゃん」
「人に見られるから!」
私は武琉さんの腕から逃れた。それから猛烈な早歩きで、最寄り駅へ向かう。武琉さんは、優真ちゃんと呼んで追いかけてくるではないか。
会社のそばで名前を呼ばないでほしいのに! あ、それより、包丁。そうだ、武琉さんに包丁を渡して、レイさんに返してもらおう。だって、夫婦なんだから一緒に住んでいるだろうし、すぐに返せるよね。
私は立ち止まり後ろを振り返った。
「武琉さん、包丁を返したいんだ」
「え? 包丁? 返すってどういうこと?」
武琉さんは目を白黒させている。
「預かった包丁だから、返したい」
「誰から預かったの?」
武琉さんは本当にわからないのだろう。野菜を見つめる時と同じく、純粋な瞳で私の目を見つめてくる。
「…レイさんだよ」
私の唇はその名前を口にして、僅かに震える……
「そっかぁ、会っちゃったんだぁ、レイさんとぉ」
と、武琉さんの口調はどこまでも呑気な感じだった。まさか、自分の妻をさん付け? いったいどういう夫婦なのだろう……
包丁を引き取ってもらうため、武琉さんに私のアパートまで来てもらった。
ドアの外で待ってもらおうとしたのに、私が鍵を開けた途端、するりと、まるで魚が水中の水草の間を抜けるように、武琉さんは室内へ入り込んだ。
私がクローゼットから包丁の入った紙袋を取り出そうとした時、武琉さんが背後から抱きついてきた。
「やめて!」
私は武琉さんを振り解こうとして、もみ合いになる。渾身の力で突き飛ばしたら、男にしては細身の体が棚に激突した。その衝撃で、棚から漬物石が落ち、武琉さんの右手に直撃した。
「ぎゃっ‼︎」
私は説明し難い不思議な力を感じた。漬物石は実家の母が送ってきたものだった。
なぜ、そんなところに漬物石があったのか。漬物作りを放棄した私は、母の漬物石を捨てることができず棚の上に放置していたわけだが、まさかそれが自分の身を救うことになるとは……
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
武琉さんは床を転げまわり大げさに叫んでいる。自業自得でしょと思う一方、責任も感じるから私は神妙な声を出す。
「武琉さん、大丈夫? 手見せて」
武琉さんはブルブルと震えながら、右手を差し出す。私はぎょっとした。なぜなら、その手は真っ赤に腫れ上がり、指1本、1本が、まるでサツマイモのようになっている。
「痛い、やばいぃ~、明日納期があるっていうのにぃ……」
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