31人が本棚に入れています
本棚に追加
もう何がなんだか、わけがわからなくなった私は、ずんずんと廊下を進み階段を駆け下りてロビーまで行った。
フロントに宿のスタッフがいて私を見たから、慌てて顔を逸らした。まだ泣いてはいなかったが、きっとひどい顔をしていると思う。取り繕って、
「お風呂どう行くんでしたっけ?」
とわからないふりをすると、丁寧に教えてくれる。タオルも洗面道具も持たずスマートフォンしか持ってないからおかしいのだが……
とにかく、そのままお風呂へ向かう。
その時になって、じわじわと涙がこみあげてくる。私は手でそれをぬぐいながら、どこか泣ける場所はないかと探す。
お風呂上りに休憩をする場所があった。「御休み処」と書かれている。奥の方は畳敷きになっているが、手前部分には椅子が幾つかあるようだ。覗く、誰もいない。私はそこの椅子にどっと腰を下ろす。
じわぁと涙が溢れてくる。もうとめることができない。
武琉さんと過ごした半年間の出来事が走馬灯のように浮かんでくる。
出会いは、私が駅前のスーパーで大根を掴んだ時だった。
「おー、すばらしい!」
背後から男の声がした。圧の強い感じだったから、やばい人かなと思って振り向かなかった。それにまだ私に言ったかどうかもわからなかったし……
「あなたはセンスがある。その大根を選ぶとは」
は? もしかして、私に言ってる? あの時はそう思った。
「あなたですよ、あなた。すばらしい大根を持っているあなた」
私は右手に持っている大根を顔の高さまで上げて見た。わ、先が二股に割れてるじゃないか。仕事の失敗を反芻していて、ダメなやつ掴んじゃってる。咄嗟に、大根を戻す。たくさん積まれている他の大根達の上に。
「もったいない。いいんですか? せっかくの大根を手放して」
ああ、うるさいな、もう。
「どうぞ、その大根、あなたに譲ります」
そう言って私は大根を諦め、他の食材の方へ歩き出した。
「待ってください。気分を害してしまったようですね。お詫びに大根をプレゼントさせてください」
うわっ。新手のナンパかと思い、チラと振り返る。立っていたのは、まあまあ整った顔立ちの細身で長身の男だった。左手にはもうすでに、二股の大根が。素早い。そして、普通の大根を掴んだ右手を私の方へ差し出している。
これが私とウインターサマー・武琉との出会いだった。彼がベジタブル・アーティストだということはあとになってわかる。
最初のコメントを投稿しよう!