春よ恋

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春よ恋

 桜……日本中で、どこでいつ頃咲き始めるかという桜前線だとか、ニュースに取り上げられるほどの花木。卒業ソングでも定番で、日本中がこの花に浮かれ、この花を愛していると言っても過言ではない。今年も、この広大な緑地公園では花見に訪れる客がほとんどである。弁当や酒を持参し、敷物まで用意して徹底的に楽しむつもりでいる者もいれば、ただ桜並木の中を散歩してすぐに去る者もいた。とにかく、日本人というのはこの季節と言えば花見であり、花見と言えば桜であり、それだけ桜を愛しているのだ。花菜子もそんな季節に、スケッチブックと画材を手にこの公園へと訪れていた。だが……被写体は生憎と日本中の愛する桜ではない。  桜並木は通り過ぎ、公園の中の林へと花菜子は歩を進める。花見客の喧騒は徐々に鳴りを潜め、木々が風に凪ぐ音と鳥の囀りのみの静寂が辺りを包み始めた。そして、道なりに進んで行くと、一本のトネリコの木の前で足を止める。それを一度見上げ、深呼吸すると意を決したかのような表情を浮かべ、そのトネリコの前で折りたたみ椅子と画材を広げた。  このトネリコの木は、英国のある市からこの公園がある市に友好の証で移された木だ。つまりこの公園でこの木だけ異国からやってきたのだ。だが、この一本の木は特別なところはたったそれだけである。何故なら、この木はもう何年も花を咲かせていない。トネリコは雌雄がある木で、この木は雄の木だが、雄の木一本だけがあっても仕方ないから花が咲かないのかもしれない。でも、花が咲かないのであれば、ただ青々とした葉を茂らせているだけの、一般的な人間からすればその辺にある普通の木と変わらないため、目立たないのだ。それに異国の木というのも、知識や関心がなければどうでもよい話である。しかもトネリコなんて、桜と比べたら日本人の関心の度合いなど歴然の差だ。だが、花菜子は桜よりもこのトネリコを気に入っていた。だから、毎年他の花木ではなくこのトネリコをスケッチブックに描いている。一般的な人間からしたらただの木でも、花菜子からしたらこの木は興味深いものだったからだ。異国から移され、慣れないはずの日本という環境に馴染み、枝をしっかり伸ばし葉を茂らせているこの木が、どこか他事のように思えなかった。それに、セイヨウトネリコは神話では世界を支える木であるとか、人間もこの木から誕生したなんて話もある。その神秘さが気に入っている理由でもあった。  創作意欲のままに、鉛筆で線を紙の上で走らせる。時折、トネリコを見上げてはまた目をスケッチブックへ。それを繰り返していると 「また来ていたのか君は。相変わらず物好きなものだな」  スケッチに夢中になっていたが、自分以外の馴染みある声がしたので、花菜子は手を止め顔を上げる。黒い革靴、ブラウングレーのスラックスにベスト、白いシャツに黒のネクタイ、そして白い肌に若葉みたいな碧眼と金髪……と順に見上げた後に、その呆れたような表情が浮かんだ顔とかち合った。花菜子はその異国人っぽい青年とは既知だったので、肩を竦め答える。 「私が好きなもの描いているんだからいいでしょ。それより、そこにいるとスケッチの邪魔だよ、アッシュ」  アッシュと呼ばれた青年も呆れた顔のまま、仕方ないと言ったように肩を竦める。そして、スケッチに熱心な少女の邪魔にならないように、退いて彼女の隣に立った。 「……桜は描かないのか」  アッシュの最早恒例の質問に、花菜子は苦笑しそうになった。花菜子がアッシュと出会ったのは、一昨年丁度今のようにこのトネリコをスケッチしていた時だ。その時も桜を描かないのか真っ先に訊ねてきた記憶がある。余程、アッシュからすれば気になって仕方ないことらしいが、花菜子はお決まりの言葉を返す。 「私はああいう当たり前で賑やかなのより、もっと違うものが描きたいんだよ」 「……このトネリコは花が咲いてないぞ」 「それでもだよ」 「……君は本当に変わってるな」  相変わらず呆れた態度だったが、どこか満更でもなさそうな顔をアッシュはしていた。アッシュはいつもそうだった。このトネリコを好きだとか、花菜子が褒めたり好意を述べると、どこか照れたような反応をする。まるで自分が言われているみたいに。それが初めは少し不思議だったが、きっとアッシュもこのトネリコが好きなのだろうと思うとそれが自然に思える。それにそれなら自分の仲間のようで花菜子は嬉しかった。ゆえに、今では気にしていない。 「アッシュは?桜見に行かないの?」  いつも自分に桜は見ないのか訊ねてくるので、疑問もあるがたまには意趣返しのつもりもあり花菜子はアッシュに訊ねる。……すると、急にどこか空気が少し重く感じだした。不意のこともあり、首を傾げつつ花菜子はアッシュを見上げる。見ると、アッシュは不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。 「あの複製どものくせに、盛って浮かれた連中のところにか? 腹立たしくて、鬱陶しくて……何年も仲間の見つからない孤独な僕が惨めになるだけだ。だから行かない」  苛立っているような、どこか辛そうな声色でそう言うと、アッシュは俯いた。花菜子は、普段冷静なアッシュが珍しく感情的になったことに驚き目を丸くする。だが、すぐに申し訳無さそうに口を開いた。 「ご、ごめん……そんなにアッシュが普段その……寂しかったなんて知らなかったから」  きっとアッシュは花見に行けるほどの親しい人がいないのかもしれない。そして、それもアッシュは気にしていたのかもしれない。だから、こんなところで自分と話すしかなかったのだろうか……と花菜子は思った。そうすると、気楽に聞いていいものじゃなかったのは当たり前だ。故に花菜子はなるべく言葉を選んでいた。そして……そんな花菜子を見てか、アッシュも罰が悪そうに零す。 「……いや、僕こそ悪かった。君に言っても仕方ないのに」  アッシュも心底申し訳無さそうな様子だった。先程よりももっと辛そうな面持ちだ。まるで、今にも花菜子に見捨てられてしまい、それを恐れているかのようにも見えた。……花菜子はこの程度で、アッシュを友人と見做さなくなるわけないのに。そんなアッシュの様子を見て、花菜子は苦笑した。 「ううん、気にしなくていいよアッシュ。それよりさ、もうすぐこのトネリコのスケッチ書けそうなんだ。また見てくれない?」  花菜子の言葉を聞いて、アッシュは安堵したような表情を浮かべた。そして、アッシュの答えは勿論決まっていたため頷く。それに花菜子も嬉しげに微笑んだ。  ひとしきり満足するまでスケッチすると、花菜子は画材と折りたたみ椅子を片付けた。そして、伸びをして鞄を肩に掛ける。 「じゃあ、またね。明日も来るから」  花菜子が手をひらひらと振って声を掛ける。それにアッシュがすかさず反応した。 「あ、明日も来るのか?」 「勿論、だってまだまだ描きたいから」 「……描きたくなくなったら来なくなるのか?」 「もう、んなわけないでしょ。このトネリコは私の一番のお気に入りなんだから」 「!! い、一番……?」 「そう、一番」 「……」  「じゃあね!」と花菜子はアッシュに手を振るとトネリコの生えた林を後にした。振り返ることなく。……だからこそ、花菜子は気づかなかった。花菜子を呆然と見送るアッシュが、ぶわりと崩れてただの木の葉の塊になり、それが風に吹かれて消えたことに。  その年、久しぶりにこのトネリコに花が咲いた。雌の木が見つかっていないのに咲いた理由がわからず、学者たちの間で騒ぎになり、環境が原因ではないかと言われたが結局はわからなかった。トネリコの緑の葉はまるであの碧眼を、黄色い花はまるであの金髪を思わせる。
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