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ああ、嫌になっちまう。
暁は、浮かんできた思考を掻き消すように、ひらひらと掌を動かした。
「虫でもいたのか?」
衝立の向こう側から聞こえてくる艶めかしい声に紛れて、耳障りの良い声が聞こえてきた。
顔を上げると、暁の瞳に、客の顔が映った。
総髪に髷を乗せて、着物の上からでも、体格が良いのがわかる。
着物も上等で、無精髭も生えていない。
破落戸のようにも見えないし、かといって、商人のようにも見えない。
刀でもあれば、武家なんだろうと予測できるが、客のそばに刀らしきものはない。
初めて見る顔だった。
「ああ、何か見えたけど、気の所為だったようだね。もう一杯どうでありんすか?」
「もらおうか」
穏やかな口調が、妙に心地よく感じる。
暴力こそ振るわないが、態度も言葉遣いも、粗野な客が多い。
(まるで初夏の風のようだね)
暁の一番好きな季節は、初夏だった。
暑くもなく、寒くもなく、風は穏やかで、どこからか漂ってくる甘い香りも好きだった。
そんな初夏を思い出させる客と、もう少し何かを喋ってみたい。
そんな気持ちが、暁の中に湧いてきた。
部屋持ちの姐さんに付いていたら、唄や三味線などの手習いもできただろうが、禿時代から、暁は誰にも面倒を見てもらっていない。
見世に必要な遊女の一人でしかなかった。
特に話題も見つからず、話しかけることもできないまま、無言でいた。
(買われるのなら、こういう旦那がいいねえ)
こんなことを考えるのも、初めてだった。
あたしじゃ、指名はされないだろうね。
もう一杯酒を注いで、その場を立った暁を引き止めたのは、客の方だった。
「もう一度、戻って来てくれないか」
耳を疑った。
客は、暁の目をジッと見ている。
「今夜は、俺と寝てくれないか」
聞き間違いではなかった。
今夜、暁は、この客に買われた。
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