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轍の青女(5)
自分に似ている娘が嫌なんだ、愚かな夫が気にいらないんだ、軛となる家庭など放棄してやる……との思いがあっての行動ではなく、好きなときを好きなことを好きにやってみたい……それがわたしの実母だった。
わたしには母の手料理を食べた、という思い出があまりない。
料理は……父や祖母や叔母が作ってくれていたように思う。
わたしに着る服や明日のための用意をしてくれて、食事を作ってくれたのは家にいる際は父か、母の妹か、近所に暮らしていた母の両親、もしくは父の両親だった。
父の両親は居酒屋と保険業をやっていて、孫であるわたしへ会うためによくよく来てくれていた。
……母がどこへでも行けたのは、彼らの存在があったためともいえる。
だからといって、父が母を「子供の面倒を見るのはお前の仕事だろ、お前は母親として失格だ!」と責め詰ることはなく、母が父を「態度だけは立派だが、あんたは稼ぎが足りない!」と馬鹿にするといったことも皆無だった。
二人は互いの長所も短所も大好きで、どこにいても、心と心が溶け合っていた。
さて、身体の相性が良かった彼が夭逝してしまい、失意の渦中にあり、お腹に彼の子が宿っているのでもないわたしへ都合良くも、異動の話が舞い込んできた。
「……なぁ、藤井君は独り身だから……遠いけど、あの地方に行くのは簡単だろう。……手がかかるちっちゃい子供や、あれこれ口出してくる亭主はいないんだ。いいよな〜……妻と子がいる私なんて無理だよ。首に縄つけられてる。……どうだい? 悪い条件じゃないだろ?」
わたしから表計算ソフトの使い方を習った課長は、相手の胸の内を見透かしているのか、くっくっくっと笑って眼鏡をかけ直した。
好意的に解釈すれば…………「こんな僻地にいるべき人間ではない、俊英なゆうこちゃんは、誰でもできる事務作業をするために机へ向かったり、愛想笑いを浮かべて御茶汲みなんてしていないで、別の場所で活躍してはいかがかしら?」……ということを上司は述べていたのであった。
わたしは異動の件を両親へ伝えて承諾を得てから、「……承知しました、課長。お話をお受けいたします」と上司へ返答し、「遠くに行くことになったよ」と学生のときからの友達に伝えて歩き、生まれ故郷を後にした。
赤ん坊を抱いてる友達もいたし、実家に引きこもってる友達もいたし、年上の男性と同棲している友達もいた。
事故死した彼が手渡してくれていた合い鍵を処分し、準備が万全に整ったわたしは桜が咲く季節、後腐れなく故郷から出た。
彼を手に掛けた、直接死に至らしめたのではないものの、ここにはいたくないとの心情……いわば莟にわたしは包み込まれていた。
「犯罪者ではないのだから堂々としていればいい」とは何度も考えたが、そもそも何に対抗して胸を張っているべきなのか、いつまでも晴れない曇天よろしく不明朗だった。
先述した通り、両親は大の仲良しで、わたしがいなくなっても大丈夫なのはわかっていた。
父と母が、わたしの前で戦っていたことなど一度もない。
両者は相手のいないところで陰口をたたく、といったこともなかった。
終わらないケンカの仲裁に聡明な娘が必要だという二人ではない。
つまり、わたしの両親には「子は鎹」ではなかった。
わたしはこの時点で、愛着があった生まれて育った町へ見切りをつけた。
わたしを引き留めるものは、生まれ故郷になかった。
そして勤務先は変わったが、待遇は故郷のそれよりもはるかに良好であった。
何度も何度も、たくさんの人々から、異口同音にわたしは感謝された。
しかしながら……わたしは満たされない肉体と精神に引き裂かれ、数字ばかりを数えて過ごした。
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