もののあはれ

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 僕はまたあの桜並木を歩いている。  隣には父がいた。  僕たちはまるで何年も何十年も同じことを繰り返しているみたいに、その道を歩いていた。  何で父がここにいるのか、なぜ僕に姿が見えているのかなんてどうだってよかった。ただ父が側にいることがすごく幸せだった。 「父さん、日本人の夢はいつ叶うんだろうね」  僕は父に訊いた。 「父さん達皆が頑張ってきたことはいつ認められるんだろう。桜の花は何度やっても咲かない。元太や皐月はずっと学校に来ない、他の皆も。諦めてるんだ、自分たちには無理だって」 「無理なもんか」  力強く父が言った。目の前の満開の桜の大木は凛と僕たちを見下ろすように佇んでいる。 「父さんはよく考えた。何で日本人は桜を愛したのか? と。桜は日本人の魂と結びついているんじゃないかと思うんだ。多くの日本人は勤勉で仕事に真面目に取り組む。日の大半を仕事に費やし、私達のように人生を賭ける者も多い。私の仲間達もそうだった。与えられた役割を着実にこなし残業も辞さない。他人に対しても気を遣う繊細な性質で、精神的疲労も激しい。鬱病なんかの精神疾患を抱える者も多い。ある友人はこの星での過酷な業務で精神を病んだ」 「そうまでして、どうしてやるの? 桜のために心身削って必死に働いて、桜は咲かないうちに皆死んでいくのに」  恐る恐る父の顔を窺った。父は怒っていなかった。その代わりさっきより鋭い声で言った。   「命を賭ける価値があることだからだよ」  父は僕と向き合った。父の眼鏡の奥にある目は優しく、だけど強く輝いていた。 「生きている間、ずっと考えていた。お前に残せるものは、未来に残せる物は何かと。人々が愛した日本の景色の殆ど全てが消えた今、自分に何ができるのかと。  私は本物の桜を見たことはない。だが初めて桜並木の映像を観たとき、あまりの美しさに言葉を失った。同時に悲しかった。先祖が長らく愛した風景が失われ、桜を美しいと感じる心が失われてしまうことが。そして思った。この景色を取り戻したいと。  桜の命は短い。春が過ぎれば散ってしまう。それでも短い時間の中で見る人の心を癒し、潤し、明日を生きる活力を与えてくれる。桜は日本人の心の象徴だ。どんな困難に直面しても静かな強さで、また花が咲く日まで必死に前に進み続ける。祖父母や両親のそんな美しい姿を見て、子どもたちも同じように強く生きていく。  桜は日本人の心だ。魂だ。桜は言葉を発しない。凛と静かに立ち、美しい花を咲かせる。その姿に人々は癒され救われる。地球に住む、暗い土の中の生活しか知らない人々のために桜を咲かせる。それが我々の使命だ。私は叶えられなかったがお前なら絶対にできる。お前は強い子だ、だからきっと大丈夫だ」  父の手が僕の頭の上に乗る。ゴツゴツした大きな手、だけど凄く温かい手だ。  父は何でもできる。そう思っていた。だから病気が見つかって余命3ヶ月と聞いた時は信じられなかった。父さんは絶対に病気を治して桜の花を咲かせるんだと。だけど父は逝ってしまった。  今の僕にできることは一つしかない。  大人たちが日本の未来のため必死に使命を果たそうとする姿は、確かに僕の目に、心に、まるで桜を生まれて初めて見たときのように鮮烈に焼きついていた。  土の中で暮らすなんて御免だ。桜のように短い命を誰かのために燃やすことができるなら、僕は迷わずにそっちを選ぶだろう。 「父さん、僕頑張るよ。皆がやってきたことを無駄にしないためにも、地球の皆のためにも」  父は微笑んだ。  唐突に風が強まり、突風に巻かれた薄桃色の花弁の群れが花吹雪となって僕達を包んだ。呼吸もままならぬほどの強い風と花弁の壁で視界が瞬く間に覆われてしまった。  やがて花吹雪が止むと、父の姿は目の前から消え、地面に積もる大量の桜の花弁と僕だけが取り残された。  
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