春の雨が運んだ約束

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春の雨が運んだ約束

 春を感じさせない(にご)った空から、途切れることなく雨が降り続ける。  駅の裏手側にある古びたベンチに一人の青年が座っていた。    高校指定の制服(ブレザー)の上には寒さを防ぐためだろう濃紺(ネイビーブルー)のPコートを羽織り、色素の薄いほっそりとした右手は時折(ときお)り、ベンチに置かれたスマホを操作している。    ポタポタと冷たい雨が彼が左手に握るビニール傘へと落ちていく。    左右非対称(アシメントリー)、左眼側だけが極端に長い髪の合間から覗く京紫色の瞳は、わずかに上空を見つめていた。  視線の先には連日の雨に打たれ続け、既に少しずつ散りつつある桜の木があった。  今週末には、かなりの強い雨と強風が街を襲う。  おそらくはその時、ほとんど散ってしまうだろう。  この駅の裏手にある桜の木は、この街の小さな観光名所だ。  近年は桜の時期になると雨が多くなるために花見に行けなかった人達からも好評だ。  今も電車待ちの人達が無言で雨に(さら)される桜を眺めていた。    青年は雨の日の桜が好きだった。    人気(ひとけ)もなく、雲の色も葉を揺らす音もどこか物悲しい。  瞬きを繰り返す間に花弁(かべん)が一枚、また一枚と剥がれていき、水溜りへと静かに沈んでいく。  自分が居るその場所が、まるで世界から隔離(かくり)されているような気持ちなる。    だが、もうじき帰宅ラッシュで騒がしくなる。  そろそろ帰った方が良いだろう。  青年は黒いショルダーバッグを肩にかけて立ちあがる。 ――「もう帰っちゃうの?」 「はっ?」  まだ冷たい春の風が暖かな生命の息吹を乗せた声を運んできた――。
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