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【4】京太郎
午後十九時。夕食の引っ越し蕎麦を食べ終えた海璃は、自分の寝室のベッドに転がり、スマートフォンを手にして、和真に電話した。
スマートフォンを耳に当てた。
呼び出し音の数秒後、和真が電話に出た。
「もしもし」
「あ、俺、海斗だけど」
「引越し終わったのか?」
「うん」
「今度、沙也加と襲撃するよ」
「結愛ちゃんにもうちどキャンプ誘ってみようかな」
「おまえから誘ってみろよ。好きなんだろ?」
「告ったんだけど、お母さんのことがあるから……」
「だよな、なかなか難しいだろうな」
「でも諦めたわけじゃないから、しつこくしない程度に頑張ってみるよ」
「頑張れ。応援してる」
「ありがとう」
「じゃあな」
「それじゃあ、またな」
通話を切った直後、ドアをノックする音が聞こえた。
トントン。
海斗が返事する。
「はーい」
美波はもう一度トントンとドアをノックした。
「トントン、入ってますかぁ?」
ベッドから背を起こした。
「もうガキじゃないんだから、そのノックの仕方やめろよ。てゆうか、ここトイレじゃないんすけど」
ドアを開けた。
「いいじゃん。小さい頃、きゃっきゃって笑い声上げて喜んだのよぉ。“入ってましゅよ”って。入ってますよって言えなかったのよ。あの頃は可愛かった。目の中に入れても痛くなかったのに、今なんて生意気になっちゃって、目の中に入れた日には眼科直行ね。痛い、痛い」
「悪かったな。で、何の用だよ」
「結愛ちゃんに連絡したの? ここに住んだから夏休み明けは一緒に登校しようって」
「まだしてない」
「積極的にいかないと」
「余計なお世話だよ。母さんと違って彼女はシャイなの。おばさんはウザい」
心配したのにウザいおばさんと言われて腹が立った。
「なによ、せっかく心配してあげたのに」
「せっかく心配してあげた? 上から目線でムカつく。別に心配してもらわなくても結構です」
口喧嘩になってしまい、イライラしてきたので、バタン! と戸を閉めた。
「可愛くないわね!」
「もっと静かに閉めろよな!」
よく見てみれば、ここのドアには鍵がついている。以前住んでいたアパートの寝室にも鍵がついていた。
だが、どんな言い争いの喧嘩になっても鍵は閉めない約束をしてきた。それをしてしまっては、心が離れ離れになってしまうからだ。だから鍵はどんな事があっても閉めない。
ため息をついた。
ちょっと、俺もガキだったかな……
まぁ、いいや……
そのとき、ふたたびドアをノックする音が聞こえた。
仕方ないので付き合うことにした。
「入ってますよ」
もう一度 トントン。
二度目になるとしつこく感じた。
「だから、入ってますよ」
しかし、もう一度。
ドン……ドン……
いつもと違うノックの仕方だった。
この家にいるのはふたりだけ。美波以外がノックするはずがない。
「母さん?」海斗はドアを開けた。しかし、そこに美波の姿はない。「あれ? おかしいな……」
リビングルームのドアを開けると、シャワーを浴びている音が聞こえた。
訝しげな表情を浮かべて首を傾げた。
(空耳? 下見の時もこの寝室で空耳が聞こえた)
なんとなく気持ち悪いとは思ったが、霊感がないので、気にしないことにした。その後、シャワーを浴びて、深夜一時にベッドに入った。
静まり返った空間に海斗の寝息が響く。
そこへ―――
「ゴボ……ゴボ。コポ……コポ……」と、水の中で空気を吐く音が混じった。
寝室に現われた怨霊は海斗の寝顔を凝視する。
「ゴボ……ゴボ……コポコポ……魁斗……」
翌日、正午に目が覚めた海斗は、布団に落ちていた長い髪の毛に気づかず、背を起こした。Tシャツとスウェットパンツに着替えて、リビングルームに入ると、ソファに座ってテレビを見る美波の姿が見えた。
昨夜、口喧嘩したが、気にせずに話しかけてきた。
「おはよう」
海斗も気にせず返事した。
「おはよう」
「よく寝たわね」
台所へ行き、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いだ。
「夏休みだからね」
喉が渇いていた海斗は麦茶を一気に飲み干した。カラカラに渇いた喉を通過する朝一の麦茶は、大好きなオレンジジュースも美味しい。
昨夜、ベッドに入って一人で考えた提案を持ち掛けた。
「今晩、引越し祝いをしようかと思うの。結愛ちゃん一家も呼んじゃおうか」
ヤシロマートにはよく行くので、結愛の父とも何度も会話している。
「お父さんも呼ぶの?」
「だって、みんなで食べたほうが楽しいでしょ? お向かいさんになるんだから仲良くしないとね。それにお父さんと一緒なら断られないでしょ? それもあんたから誘うんじゃなくて、あたしから」
自分から誘うとまた断られる。美波から誘ってもらえば、きっと来てくれるはず。
「母さんから誘ったら断られないかも」
「でしょ? よし、決まり。お寿司でも取ろうか?」
「寿司? 俺、ミートスパゲッティと唐揚げと、グラタンと、ババロアが食べたい」
「そんなに食べるの!?」
「料理得意なんだからいいじゃん。結愛ちゃん一家を驚かせようぜ」
子供のころから料理に興味があった。凝り性な性格なので味へのこだわりも強い。
「久しぶりにお寿司が食べたかったんだけど、まあいいか。作るわ」
子供のころからミートスパゲッティが大好き。
「特製ミートソースをたっぷりかけてよ。特に俺のは」
「はいはい」
「ホント、あれだけはどこに出してもいいと思うよ」
「あれだけはって、他はどうなのよ?」
「他も旨いけど」
「今夜は頑張らなくちゃ。買い出しにも行かないと」
「ヤシロマートで買ったら?」
「お店には行ったことはあるんだけど、レジ打ちはいつもアルバイトだったの。結愛ちゃんのお父さんとは面識がないからそのつもりよ」腰を上げた。
面識がなくても接客業が長い美波なら心配ない。
「頼んだよ」
「任せて」
「あのさ……」ちょっと視線を逸らした。「昨日はごめん言いすぎた」
笑みを浮かべた。
「母さんも言いすぎたわ。じゃあ、行ってくる」
「うん」
財布を持った美波は、玄関を出た。すると、このアパートの下見に来たときに会った久保田とすれ違った。
「こんにちは」
「こんちは」尋ねた。「出たか?」
“出たか?” と、突然、訊かれても意味がわからなかった。
「何が?」
「ここで “出たか?” と訊かれたら、幽霊とかそういう類いのことだ。俺はここの304号室に六年ほど住んでいる。でも、たいしたものは見ないんだよな」
同じ賃貸に六年も住んだことがないので驚いた。
「六年も!?」
「ああ。買い取ったんだ。ホラー漫画家なんだが、いいアイデアが降りてくると思ってな。坊主に言っておけ、久保田のりおの漫画を買えとな」と、言って、階段を上っていった。
坊主……まぁ、いいわ。悪い人ではなさそう。
階段を降りた美波は一階の通路に目をやった。105号室の前で屈んでいるタエの姿が見えた。日向ぼっこでもしているのだろうか? とくに気にせず、アパートの敷地から出て、横断歩道を渡った。
店舗の前までやって来てくると、二十代の男女が自動ドアから出てきた。男が買い物袋を持ち、女が赤ちゃん抱っこしていた。
女に視線を向けた美波は、海斗にもあんな頃があったなぁ、と、懐かしむように目を細めた。二人との距離が縮まったので、赤ちゃんの顔に目を向けた瞬間、ぎょっとした。女があやしていたのは赤ちゃんではなく、揺らすと瞼が開閉する人形だったのだ。
虚ろな目の女は、話しかけてきた。
「ほら、かわいいでしょ? あたしの赤ちゃん」
赤ちゃんの人形を向けられ、動揺し、男に目をやった。
「あ、あの……」
男は美波に説明した。
「すいません。去年、子供が死んでから精神が病んでしまって、いま精神科に通院しているんです。もしアパートですれ違ってもお気になさらず」
子供が死ぬ、同情した。自分も海斗が死んでしまったら立ち直れそうにない。
「そうだったんですか。お気の毒に」
「では、失礼します」と、男は会釈し、妻と共にアパートへ歩いて行った。
歩を進め、店内に入った。
商品を補充するアルバイトがこちらに反応した。
「いらっしゃいませ」
京太郎がバックヤードから出てきた。結愛の親にしては年齢層が上だ。白髪交じりの髪はすでに薄い。この店の窓に貼ってある嘉代子の情報が記載されたビラに書かれた年齢は二十八歳。ずいぶんと年の差があったようだ。世の中の厳しさを知らずに十代で母になった自分とは異なり、苦労を重ねてから親になったという感じがした。
「こんにちは、初めまして。香田海斗の母、美波です」
京太郎は、笑みを浮かべて会釈した。
「こんにちは、こちらこそ初めまして、京太郎です。海斗君が向かいのアパートに引っ越ししてきたと、娘から話は伺っています」
早速、誘う。
「今夜九時頃、うちで引越祝いをするんですが、もしよろしければ結愛ちゃんと一緒に来ませんか?」
「僕もいいんですか?」
「結愛ちゃんを誘ってもなかなか許可してくれないみたいで」
親の想いを打ち明けた。
「娘には幸せになってほしいと思っているのですが、母親が行方不明になってから幸せになろうとしないのです。僕から誘ってみます」
京太郎から結愛を誘ってもらえば必ず来ると確信したので、料理の材料を買うことにした。
「はい、お願いします。204号室でおいしい料理を作って待っています」
「楽しみです」
美波は必要な材料を手にし、カゴに入れた。コンビニスタイルのスーパーなので、野菜や果物そして肉や魚も生鮮食品コーナーに陳列されていた。もちろんお弁当や種類豊富なデザートも陳列されている。
材料を入れたカゴをカウンターに置き、レジの中の棚に陳列されている御贈答用のお菓子を選んだ。これは引っ越し蕎麦を貰った紫音へのお返し。このあと彼女の部屋に持って行く。
「クッキーの詰め合わせください。ラッピングだけでいいです。のしはいりません」
京太郎は言われた品物を手にし、スキャンし、慣れた手つきでラッピングした。
「はい。畏まりました」
その後、すべての商品をスキャンし、「レジ袋はご利用になりますか?」と尋ねた。
「きょうエコバッグ持ってきてないからお願いします」
「五千二百五十円になります」
「はいちょうどね」
「はいちょうどお預かりします」と言ったあと、レシートを渡した。
商品をレジ袋に詰めた美波は、京太郎に会釈し、店をあとにした。部屋に戻り、海斗に状況報告し、いましがた購入した手土産を持って、紫音の名刺に記載されていた102号室へ向かった。
一階の通路に屈み込んでいるタエの様子が気になったので、彼女に歩み寄った。苺キャンディが入った小さな容器を手にしている。
「何なさっているんですか?」
タエは返事した。
「小さい女の子が来るの。名前は道子ちゃん。五歳のかわいい女の子。苺キャンディが好きなんだって」
痴呆だと思ったので、「そうですか。道子ちゃん来るといいですね」と、優しく返事し、紫音の部屋のチャイムを鳴らした。
紫音がドアを開けた。美波の顔を見て尋ねた。
「これはこれは、海斗は元気かい?」
「はい、元気すぎるくらいですよ」手土産を差し出した。「これ、お口に合えばいいんですが、蕎麦のお礼です」
「気を使わせてしまってかえってすまないね」手土産を受け取った。「ありがとう。麦茶でも飲んでいけ」
ちょうど喉が渇いていた。人見知りせず、誰とでも仲良くなれる性格なので、お邪魔することにした。
「おじゃまします」
と、玄関に足を踏み入れた瞬間、壁一面に貼られた呪符に驚いた。リビングに入っても同じ状態でだったので、これは占いの館でよくある演出だと思った。
自宅経営なので台所は紫色のカーテンで遮られていた。ベランダも光が遮られている。その代わり怪しげな色のランプが点灯されていた。
大きな水晶玉が置いてあるテーブルを指した。
「そこに座ってくれ」と言って、カーテンで遮られた台所へ入った。「冷えた麦茶を入れるからな」
「ありがとうございます」
台所から戻った紫音は、グラスに注いだ麦茶をテーブルに置いた。
「飲め」
「あ、すいません。ありがとうございます」喉が渇いていたので、早速、麦茶を飲んだ。「この前のお蕎麦美味しかったです」
「そうだろ。あの蕎麦旨いんだ」
通路にいたタエのことを尋ねてみた。
「105号室の前にいたおばあちゃんは痴呆なんですか?」
「若干な。そんなことよりも、もし……海斗に何かあったらすぐに知らせてくれ」
「海斗に何かあったら? どういう意味ですか?」
「怨霊に出くわしたらという意味だ」
笑った。
「あたしたち、霊感ぜんぜんないの。見たらある意味、奇跡です」
「そうか。でもいちおう言っておきたかった」
「じゃあ、あたしはこれから引越し祝いの準備があるので、そろそろ帰ります」
「手土産ありがとう」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました」
美波は紫音の玄関を出て、自宅に戻った。
その後、十九時から料理の仕込みを始め、一時間半が経過した。デザートのババロアを容器に流し入れ、冷蔵庫に入れた。ミートソースを作り終え、唐揚げを作った。グラタンは熱い方がおいしいので、直前で焼くことにした。
準備を整えたあとは、少し休憩。ソファーに座り、パソコンを立ち上げた。
勤め先のスナックのホームページに使っている写真を変えたとお店のママが言っていたので、早速確認のためにインターネットを検索した。
ホームページには、スナックの女性たちの自己紹介と顔写真が掲載されている。
源氏名 瑠璃
自分の顔写真を見たあと、二十代前半の子と比べてみる。
若いわね……あたしも昔はもっと肌が綺麗だったのに……
年齢より若く見られることが多い。だけれど、肌のハリは確実に失われてきている。夜になると目の小皺や法令線にファンデーションが溜まるのを気にしていた。
洗面所へ行き、鏡に映る自分の顔を見つめた。
頬に触れ、ため息をつく。
十年後が怖いわ……ボトックスでも打とうかな……
リビングルームと戻ろうとしたそのとき、鏡に何かが映り込んだ。咄嗟に後ろを振り返ったが誰もいない。
影の正体は後ろではなく、天井にへばりついている。
頭から血を流す男は四つん這いで、美波を見下ろしていた。
肩に水滴が落ちてきたので、鏡越しに自分の肩を見てみる。血のようなものが付着していたので、触れてみた。
指先に付いた赤いものを確認してみる。
やはり血だ。
「うそでしょ……」
咄嗟に天井を見上げた。男はすでに消えており、そこには誰もいなかったが、ぼんやりと手形のようなものが残っていた。それを見た瞬間、この家に戦慄を覚え青ざめた。咄嗟に手と肩に付いた血を洗い流し、逃げるようにリビングルームへ飛び出し、海斗のいる寝室へ走った。
海斗の部屋のドアを勢いよく開けた。
「出たの! 出たのよ!」
ベッドに転がって音楽を聴いていた海斗は、背を起こした。
「どうしたの? 血相変えて」
「洗面所の天井から血が落ちてきたの!」説明する。「天井にも手形が残っていた! 早く来て!」
霊感の全くない美波が見るとは思わなかったので驚いた。
「マジで?」
海斗は美波と共に洗面所へ向かった。
美波に言われたとおり、天井を見上げた。手形のようなものが付いている。が、このアパートは新築ではない。築十五年だ。シミがあっても不思議ではない。
「あたしには手形にしか見えない」
エプロンにトマトソースが付着している。
「はねまくってる。どんだけ激しくかき混ぜたんだよ。血じゃなくて、トマトソースだ。手形もたんなるシミだ。みんなにお化けが出るって言われたから、そう思い込んでしまっただけ。実際、死んだヤツが化けて出てくるなら、未解決事件なんてどこにも存在しない」
「かもしれないけど……」
「母さんが怒ったらお化けの方が怖がって逃げていくよ」
海斗の言うとおりだ。この世にお化けがいたら未解決事件なんてない。だが、それは世界中にある。お化けなんて存在しない。安堵して笑った。
「失礼ね! あたしは優しいのよ」
ふたりは台所に戻った。
「超旨そう」と、海斗は唐揚げをひとつ食べた。
「こらこら。だめじゃない」
「味見だよ」
「つまみ食いでしょ」訊いた。「味はどう?」
「旨い。マジで腹減った」壁時計を見る。「あともう少しで九時だ」
「そうね、そろそろグラタンを焼くわ。ミートソースを温め直してくれる?」
「わかったよ」と、ガス代に火を付け、ミートソースをかき混ぜた。
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