香る記憶

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 わたしは美しく咲き誇り、幽艶(ゆうえん)な香りを放ち、(うるわ)しく散ってゆく樹を見上げた。  ここの桜の樹、この桜は特別で、その香りは記憶をよみがえらせてくれる。  最も強く記憶に残っていることを…………。  中学三年生の下校時に親友が言った。 「最初な……父さんと母さんに言われたんだ。……10万あげるから、近くの高校に行きなさいってな。……タカ、お前の頭なら、あそこで十分だろって……」 「……だから、俺は言ったんだ。……いや……たった10万で俺の人生を決めてもらっては困る。……別の高校の推薦入学を狙いたい。……それでダメだったら、父さんと母さんの言う通りにするからよって……」  隣を歩くわたしはうんうん、とうなずいた。 「やるだけやらせてみてくれって……それで、まぁ、スポーツが得意だった俺はそれが上手くいって、面接だけで、合格できたってコトよ。……サカはあの高校に行くんだろ?」 「ん、うん……家から近くて、通うのが楽だから……」  サカとはわたしのことだ。  有坂だから、「サカ」って、小学生のときから彼には呼ばれていた。  彼に(なら)って、他の友達も、当時はそうわたしを呼んでいた。 「んーー……なぁ、いーのかよ? ……サカの頭だったら、どっか別の高校でも平気だろー? あんな、ランクの低いとこで……」 「いいの……基本的には、どこにも行きたくない。わたし、学校嫌いなの……知ってるでしょ、タカちゃん」  彼を「タカちゃん」と呼ぶのは、わたしだけだった。  他の誰もが、彼を吉岡と呼んでいた。  このタカちゃんは小学生の頃、同じ組の生徒から執拗(しつよう)にいじめられていたわたしを救ってくれた恩人だった。  タカちゃんと話していたとき、まだ桜は咲いてはいなかったけれど、わたしは高校への行き帰りに何度もこの道を通ることになった。  別の高校へ進んだ親友は通らなかった、何本もの桜が咲いては散る、この道を……。  高校での数年間は思い出したくもない。 「暗黒の三年間」とわたしは後になって、この時期を名付けた。  この三年間は、わたしへ甚大な影響を及ぼした。  子が母の肉体をその腹の内部から突き破って飛び出すかのように、大嫌いな高校を無理矢理といってもよさそうな状態で卒業したわたしはある試験に合格し、そして勤め始めた。  そうして、一年ほど経ったときのこと。  遠くに行っていたタカちゃんは突然の事故で亡くなった。 「長期の休みが取れたら、家に戻って、サカとも遊ぶんだ!」……と、親友はご両親へ電話で話していたという。  タカちゃんが亡くなり、しばらくしてから彼の家へ行ったわたしは彼のお母さんから、そう知らされた。  灯る蠟燭(ろうそく)に線香の匂い、目を伏せている親友の妹さんの姿があり……白黒のタカちゃんの写真が飾ってあった。  その下には、わたしと二人で並んでいる小さな写真もあった。 「……タカね、ヨシナちゃんのこと、実は好きだったみたいなのよ」と、それに目を落とすわたしへ彼のお母さんは教えてくれた。 「…………。……。……はい」としか、わたしには言えなかった。  暗黒の三年間で、心が(すさ)みきったわたしには、返す言葉が見当たらなかった。  その三年間で()れてしまったのか、涙も出ない。  タカちゃんの家からの帰り道、許しがたき高校の登校と下校に使い、通勤にも使っていた桜が咲いている道をわたしは一人で歩いた。  そのときの香りをわたしは今でも覚えている。  故郷を出るときも最後にわたしはこの桜の道を車で通った。  落ちた桜の花びらをタイヤで押しつけては、舞い散らせて道を通り、わたしは生まれ故郷から出た。  …………あれから、どれほど経過したのだろう?  わたしは同じ道に立ち、あのときと同じ桜の樹を見ながら、思い返していた。  泣くのを忘れても、胸の奥底で知っている、その香りに包まれながら…………。
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