新天地へ

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「奥さん、まだ見つからないんですか?」  引っ越し作業をしていると、隣家の鈴木さんが話しかけてきた。 「えぇ」  俺が言葉少なにそう答えると、鈴木さんはいたく同情した顔で、なおも言葉を続けた。  しかしその眼差しには、好奇心の色がありありと浮かんでいる。 「本当に心配よね。奥さん、かわいらしい方でしょう? 誘拐でもされたんじゃないかって、みんなで胸を痛めているのよ」 「誘拐なんてそんな。奈緒子はあれで二十一歳で、子どもじゃないんですから」 「あら、でも等々力さんだって心配でしょう? 二十も年が離れてたら、親子ほどと言っても過言じゃないし」 「それは、まぁ」 「会話も合わないんじゃない? うちなんて息子と話が噛み合わなくて大変よ」 「そういうことも、あるにはありましたが……でも私たちには共通の趣味がありましたから、全く話が合わないということは」 「あぁ、お花だったかしら? いつもお庭が素敵ねって、近所で噂してたんですよ」 「ありがとうございます」 「こんな綺麗なお花を置いて、どっか行っちゃうなんてねぇ……ここだけの話、奥さんがいなくなる少し前ね、短髪でガタイのいい若い男と彼女が一緒にいるのをよく見かけてたから、あの男に誘拐でもされたんじゃないかって、噂もあるのよ」 「それは多分、奈緒子の従兄弟でしょう。彼も奈緒子がいなくなって心配してるんですよ。実の兄妹のような間柄なので、それこそ私よりも熱心に探してくれましてね」 「まぁ、そうなの」 「えぇ。ですからご安心ください。それよりもし奈緒子が戻ってきたら、私は急な転勤で富山に行くことになったと伝えてもらえますか?」 「任せておいて! それにしてもお仕事大変なのね。こんなときに転勤なんて、会社も酷なことをするもんだわ」  曖昧に微笑むと、引っ越し業者から「積み込みが終わりました」と声がかかった。 「あら、でもまだ段ボールが残ってない?」  鈴木さんは玄関先に置かれた段ボールを目敏く見つけてそう言った。 「中に植木鉢が入ってるんですよ。あれはトラックに積み込めないと言われたので、私の車で運ぶ予定で」 「植木鉢まで持って行くの! 等々力さんは本当に植物がお好きなのね」 「それもありますが、あれらは奈緒子と一緒に苗を選んで一から育てた思い出の花なので、こちらに残しておきたくないんです」 「等々力さんは本当に、奥さんのことを大切に想っているのね」  早く見つかりますように……そう言って鈴木さんは去って行った。  彼女が歩いて行った先に、近所のご婦人方が数名見える。俺から聞き出した情報を、面白おかしく披露するつもりなのだろう。 「ほら、例の失踪した子の旦那さんよ」なんて声が聞こえてくる。  聞こえない素振りで、植木鉢の入った段ボールを丁寧に車に積み込む。  将来、子どもが生まれたときのためにと購入した大型のSUV。後部座席のシートを倒せば、いくらでも物が積める。  それにしても、奈緒子はこの家でもあの男と会っていたのか。  収まっていたはずの苛立ちが再燃する。  俺とは一時の気の迷い、本当に好きなのは従兄弟だなんて、そんな世迷いごとがよく言えたものだ。  出張ばかりで寂しい思いをさせたのが悪かったのだろう。  会いたいときにすぐ来てくれる従兄弟に惹かれるようになったと言っていたが、それこそ一時の気の迷いと言うもの。  あの日、出張先から一日早く戻らなければ、奈緒子は家を出ていた。そしてあの男と手に手を取って、駆け落ちしていたに違いない。  それを阻止できたのが、唯一の救いだったということか。  待ち合わせ場所に現れない奈緒子を心配した男が警察に通報したため、あの子は失踪したことになった。  だが真実は違う。  奈緒子は今も、私と一緒だ。  愛する妻が咲かせた花に、そっと触れる。 『植物もね、愛情をかければかけるほど、美しく成長するのよ』  そう言って笑った奈緒子。 「そうだね。君のおかげで植物たちはこんなに生き生きとしているよ」  あの日、俺の愛とともに砕け散った奈緒子は今、彼女が愛した植物の大きさにそれぞれ分けられて、美しく咲き誇っている。  奈緒子の従兄弟が「失踪した!」などと騒ぎ立てたせいで、あの子の実家とのやり取りなど煩わしい雑事に追われた。  さらには毎日のように家に押しかけては「奈緒子をどこに隠した!」と喚き散らされ、本当にウンザリしたものだ。  さらにあいつは警察に赴き、俺の関与を訴えたらしい。  だが結局は、事件性のない単なる家出と片づけられた。  奈緒子が以前から若い男とたびたび一緒にいたという目撃証言が、近所から多数寄せられたからだ。  それでも男は納得せずに、俺にしつこく食い下がり 「奈緒子をどこにやった」 「奈緒子を返せ」 「さもなくば……」  と恫喝を繰り返した。  まったくもって、正気の沙汰ではない。  男の言動に苛立ちが抑えきれなくなった俺は、意を決して自ら富山の支社へ転勤を願い出た。  結婚と同時に購入したマイホームには強い思い入れがあるものの、それ以上に腹立たしい出来事が多すぎる。  いっそ新しい土地で、一からやり直したほうがいいだろう。  俺のためにも。  奈緒子のためにも。  そうして俺は今日、奈緒子とともにこの街を出る。  近所のおばさん連中は、まだ噂話に花を咲かせていた。失踪した若い妻と逃げられた中年男の話は、格好の暇潰しになるのだろう。  最後の段ボールを車に積み終えると、俺は運転席に乗り込んだ。 「大丈夫、住まいをどこに移しても必ず連れて行くからね。もう二度と寂しい思いをしなくて済む。お前は俺の側で、いつも美しく微笑んでいておくれ。永遠に愛しているよ、奈緒子」  俺たちを乗せた車は、新天地に向け発車した。
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