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オッサンは顔を上げて、桜を見上げた。
「こうしていると、亡き妻の想いが分かる気がするんですよ」
「奥さん、亡くなっているんですか?」
オッサンは「はい」と抑揚のない声で返す。
その後、ゆっくりとした口調で語る。
「今から5年ほど前でしょうか。妻は、水死体として発見されました。桜で有名な河川を流れていたところを……」
「それは、ご愁傷様です」
私はなんだか申し訳ない気分がして、目を伏せる。
だけど、オッサンの様子は変わらない。
「今際の際、妻は見ていたはずなんです」
「犯人の顔をですか?」
オッサンはゆっくりと、頭を横に振った。
「いいえ。それはどうでもいいんです。犯人なんて、どうでもいいんです。それよりも重要なことがあります」
「重要なこと?」
もったいぶるように、一拍置いた。
「妻の気持ちですよ」
「気持ち、ですか?」
意外な答えだった。
「はい。気持ちです。夜に川を流されて、桜を見上げる。それはどんな気持ちだったのだろう、と」
「奥さんのこと、好きだったんですか?」
オッサンは桜に向けて、手を伸ばした。
「いいえ。ただの自分勝手な慰めですよ。妻も望んでないかもしれません」
私はもう一度、桜を見上げた。
なぜだか、人生で一番美しい桜に思えた。
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