第9章「消失点」

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「消失点だな」 「えっ?」 「あのさ、中学校の美術の時間、遠近法の話の時にやっただろ。一点透視法っつって、一点に向かって線引いて、それに沿って部屋とか本棚とかの奥行きを描くっていう。その点が、消失点」 「あー、あったね。立方体の描き方とかやるやつだぁ」 「そうそう。このトンネルの、道がどんどん狭くなって向こうで点になって見えなくなる感じさ、一点透視そのものだなぁって思って」  この道の先にあるはずの門司の出口は、消失点のようだと思った。その先に行けたのなら、俺たちは心の滓を置いて来ることが出来るのだろうか。 「たっちゃんさん、頭ぶつけんなよ」  そう言って、全長七八〇メートルの「←門司」と書かれた黄色い路面に、一歩足を踏み入れた。  海底のトンネルは、夏でも蒸し暑さはなく、かといってひんやりともしてはいなくて、散歩にちょうどいい温度だ。  お盆シーズンで、しかも寝坊して出遅れたから、閑散とはしておらず、俺たちの前に五組の観光客がいるな、というくらいの混雑具合だった。  目の前には、若い夫婦と小さな男の子、もっと小さな女の子が手をつないで歩いている。女の子のアンパンマンのサンダルが、歩くたびにキュッ、キュッ、と音を立て、その音がトンネル内に響く。俺達もその音に合わせてゆっくりと歩いた。  いや、たっちゃんさんはその歩調より少し遅く歩き、前の家族と距離を置いた。 「どうした?」 「いや、女の子が振り返って俺居たら、びっくりしちゃうかなぁって」 「たくさん絵描いてあるおもしろいお兄さんだと思うんじゃない?」 「あ、でも、顔まで見えるか怪しいかなぁ、目線の距離的に」 「お姉さんだと思う可能性あるか」 「子どもは先入観持ってないからねぇ」  男の子とお母さんの会話がうっすらと聞こえる。近県から来たんだろうか、お母さんも男の子も語尾にすこし訛りがあり、ああこんなに小さい子どもも、生まれた土地の言葉で話すんだよなという感動があった。  今この土地には、俺と全く違う地域で生まれ生活を営んでいる人たちがいるのだ、という当たり前のことに、旅行二日目にしてようやく気が付いた。  五~六分歩いたところで、福岡と山口の県境に到達した。道を横断する線が引かれ、奥に福岡県、手前に山口県と書かれている。多分ここは、観光に来た人なら必ず撮影する場所だろう。  たっちゃんさんに「撮ってあげようか」と声を掛けようか迷ったが、やめた。何故だか分からないけれど、ここで撮ってはならないような、残すなら記憶の中に留めたほうがいいような、そんな気がした。  たっちゃんさんも「撮って撮ってー」なんて言わない。どちらからともなく線の前で立ち止まり、たっちゃんさんは左脚を、俺は右脚を踏み出した。  今、俺たちは、門司に来た。
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