第7章「首筋」

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 俺の素直時間は一日に三分程度しかない。さっさと話題を切り替えるべし、と思ってフェアアイルのベストを取り出した。 「ねぇ、ちっと作業しながらプラン考えていい?」  スティークを開いたことで完全に完成した気になっていたが、フェアアイルの裏側には、糸を変える度に出来る糸端が百五十本近く、フリンジのように並んでいる。これを一本一本始末していくという、果てしなく面倒でテンションがさして上がらない作業が待っている。もうこれは、俺が一人で淡々とやるしかない。特に頭も使わないから、手を動かしながらでも話せると思った。  たっちゃんさんが、糸始末をしている俺を黙って眺めている。何か喋ってくれないと非常にやりづらいな、と思ったら、全く想定外のことを喋り始めた。 「レオの卒業旅行前に、描いていいかな」 「え、何を」 「レオの顔」 「は?何言ってんの急に」 「前に描いてもらったお礼。たまには俺の気まぐれも聞いてくださいよ」  珍しく俺の意志を無視して、たっちゃんさんはバインダーにコピー用紙を挟み、鉛筆を持ってきた。 「イラスト的じゃない絵描くの久々だなぁ」  と楽しそうだ。 「ちょっと待って!」  思ったより大きな声が出た。たっちゃんさんは、目はびっくりして開いているが、口元は笑っている。 「トイレ、行く」 「そんなに長丁場にならないよぉ」  無視してトイレに行った。鏡で自分の顔を見る。別に、こうやって鏡に映すのと同じことだ。それがたっちゃんさんの網膜であり、紙の上なだけ。 「お待たせしました」  と言って、店に戻った。 「レオ何か……目ヂカラすごいですけど……普通にして?自分が描く時、リラックスしてて欲しいでしょ」 「いや、してるよ?リラックスしてるよ」  そうかなあ、と言いながら、たっちゃんさんが鉛筆を滑らせ始めた。自分が今、どんな顔をしているのか分からない。俺はどこまでも自意識過剰だ。絵を描かれる、被写体になる、それだけのことに、意味を見出しすぎなんだ。緊張を自己批判に刷り替え、二十分ほど耐えた。 「はい、出来ましたよぉ。レオの絵と比べられるとちょっとキツイけど」  思わず立ち上がってバインダーを覗き込む。たっちゃんさんは謙遜したが、それは日常的に人の肌の上に描く人らしい、骨格と筋肉をきちんと意識した魅力的な絵だった。  でも、俺はそれを冷静に見ることができない。目や鼻はともかく、口は「キリっとしてたいけど緩んでいる口元」そのもので、それを支える頬もまた緩んでいた。  顔そのものから目を逸らし、エラの骨や首元を見た。 「ここ……」  輪郭の下、エラの陰に隠れて俺からは見えない首元に、ほくろが描き込まれていることに気が付いた。 「俺、こんなほくろあるんだ」 「あ、そうだね。自分じゃ見えないでしょ」  それを聞いて、猛烈な恥ずかしさがこみ上げた。俺の首筋は、この人に凝視されていた。 「色白いから、こっちから見ると結構目立つけどね」  ダメ押しだ。首に余計な力が入り、震えてしまいそうだ。たっちゃんさんから見た俺は、一生懸命何でもないフリをしているけど、口元が緩んでいて、白い首筋にほくろのある少年。その観察的な視線を二十分ほど受けたのに、俺は、何の嫌悪感も抱いていない。俺はこの感情の名前を知らない。それどころか、こんな感情があることを知らなかった。 「え、どうした?ダメだった?まだ修行足りないかぁ」 「いやっ!」  たっちゃんさんが小さく「わっ」と言う。何で俺は、ごまかしたい時大声でビビらせる戦法しか取れないんだろう。 「すごく、いいと思い……ますよ」 「あそう?良かった。なんかロボットみたいだけど良かったぁ」  その言葉を聴きながら、俺は思い出していた。  俺がたっちゃんさんを描いた時、「すっごい恥ずかしい」と言ったことを。  あれはどんな気持ちで言ったんだろう。俺は今、「すごく恥ずかしいよ」と伝える勇気はない。恥ずかしいと思いながら、あっさりそう言えるたっちゃんさんの心理が分からない。 「知りたいのは、俺がたっちゃんさんをどう思っているかだ」という仮の結論が大きく揺らぐ。  俺は、俺たちが互いをどう思っているのかを知りたい。そしてこの気持ちのまま、共に旅に出ていいのか、ということも。  その夜は一晩中、ネットで検索をしていた。男も女も好きにならないということについて。それが例外的に覆されたということについて。性的惹かれという概念について。  ぼんやりと見えてきたのは、俺に起きた事は、天地がひっくり返るような特殊な出来事ではない、ということだ。  誰に対しても恋愛感情を抱かないが、深く心の結びつきができた時に、初めて誰かを好きになることがある。そういう「性的指向」というものがあることが分かった。  そう、俺は、今のたっちゃんさんへの感情を暫定的に、恋愛感情であると定義づけることにした。
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