第7章「首筋」

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「あの、この会話、私がリードしていいのかしら」 「……いいです」 「市原君は、人を好きになったのね」 「……そうです」 「それは、市原君にとっては稀有なことなのね。だから、不安になっている」 「そういうこと、だね」  本当はそれ以上のこと分かっているだろうけど、言わないで居てくれているんだ。でも多分、全て言ってしまったほうが、俺も話しやすく、ルイも考えやすいと思う。 「あのさ。それはすごく、近しい人、ルイも知ってる人、だよ」  中途半端に伏せたかったわけじゃない。俺は、あれ以来、名前を口に出すのも恥ずかしいと思うようになってしまった。 「そう」  ルイに動揺はない。ルイも気づいていたのか、なんて考えそうになるが、今はそういう時間じゃない。 「それって、相手が誰だから辛い、ということかしら。そもそも人を好きになること自体が辛いということなのか、どっちなのかしら」 「うーん……どっちも、かもしれない。あ、あぁ」 「どうしたの」 「いや、あの、俺はさ、相手の性別をあんまり気にしていなかったな、と思ったんだよ、ね」 「あぁ、そうなのね。それは……語弊があるかもしれないけど、友人として、安心した、かな」  闇雲に自己否定的になるのは良くないものね、と付け加えた。 「ルイに言ってない、言えない事情があるから、ぼんやりした言い方になるけれど、俺があの人を好きになることで、俺は今シンプルに辛いし、相手も、過去の辛い経験を思い出してしまうんじゃないかなぁって。あと、人を好きになること自体が辛いっていうのは、多分俺の中高時代を見てきたから、何となく分かってくれるんじゃないかな」 「そうね、すごく、苦労してたものね」 「そもそも、俺は、自分のことを、誰にも恋愛感情を持たない人だと思ってたし、この先もそうやって生きていくんだって思ってた。気が早かったのかもしれないけど」 「じゃあ、尚更あの頃は大変だったわね。誰に話せるでもないし」 「そう、どうせ誰も、まともに聞いてくれないから……。でも、『無い』と思うことで安心もしてた。それが急にひっくり返ったから、うん、すごく、動揺してる」  俺はずいぶん、論理的にこの状況を見られるようになったな、と思った。それは紛れもなく、論理的で、いたずらに感情に流されないルイのおかげだ。  ハタと気が付いた。ルイは、この知人友人の恋愛感情の話をどんな気持ちで聞いているんだろう。しかも、どちらも男性。ルイがそういうタイプじゃないと分かってはいるけれど、嫌がる人がこの世に居ることは俺にも分かる。それに、たっちゃんさんはルイの 「推しなのに、ごめん!」 「えっ」  最悪だ。変な匂わせする奴みたいになった。ファンに一番叩かれる奴。でもルイは今日初めてふふふっと笑った。 「あの、そういうスタンスで推してないの」 「……俺はすごく、カッコ悪い」 「いいんじゃない。市原君はカッコいいことに慣れすぎてたんじゃないの」 「うわ、俺すごいナルシストみたいじゃん」 「そこまでは言わないけど、容姿に関しては他己評価と自己評価が一致しているわね。それ以外の項目の評価がねじれているけど、まぁそれはいいとして。市原君は恋愛感情を巡って色んな人から嫌な思いをさせられたけど、市原君は、誰も傷付けたり不快になんて、させてないわよ。おそらくだけど、元々の指向に加えて……その、トラウマみたいなものも、乗っかってるんじゃないかな、って思う」  俺はこれまでの経験を「ダルい出来事」という大きな箱に突っ込んできた。でも、その箱の中身のいくつかを「傷付けられた出来事」だと呼んでいいのだろうか。傷付けられた経験から生まれたこの嫌悪感と恐怖感を、トラウマと呼んでいいのだろうか。 「……でもさ、何か、危害加えられた訳でもないし、大袈裟に傷付きましたとか言っていいのかな」 「誰もそんなこと、否定する権利ないわよ。事実は市原君しか知らないし、勝手な邪推が入っていたら申し訳ないけれど、私だったら『自分は傷付けられた』と言うと思うわ」  俺は、あの時傷付いていたのか。俺よりずっと体力テストのスコアの低い相手に、身体を触られて恐怖し、拒めば「用はない」とばかりに切り捨てられた時。  好きでもないなら、思わせぶりに異性を家に呼ぶなと陰で謗られた時。  自分に好意を寄せる異性に欲情しなかったら、どこかおかしいのではないかと噂された時。俺は傷付いていたのだろうか。  女子と電話して泣くなんてカッコ悪い、と思って堪えたが、それは紛れもなく、俺を「男のくせに手も握らなかったのか」と嘲笑う人と同じ思考回路だと気づき、全力で打ち消した。  俺は「女子」じゃなく、川辺ルイという名前の聡明な友人と電話をし、彼女の優しさと鋭さに助けられて、ただの自分のプライドとして泣くのを堪えている。カッコ良くはないが、いい友達を持つことが出来た幸運な少年だ。
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