第7章「首筋」

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 少し落ち着いた後、「もうすぐ二人で旅行というイベントがありまして……」と打ち明けると 「それはなかなか……落ち着かないわね。自分に置き換えたら、肩と首がカチカチに凝りそう」 「耐えるしかないかな」 「耐えるしかないわね。でも、楽しみでもあるでしょう。私だったら、物凄く緊張するけど、同じくらい楽しみだと思う」 「……ルイ好きな人居るんだ」 「そんなに意外かしら」 「どんな人?」 「論点をずらすなら切るわよ」 「ごめんごめん。楽しみなのかな。この数日、落ち込んだり自己嫌悪したりで、全然そんなこと考えられなかった」 「私は、『自己嫌悪しなくていい』と提案したけど、それを採用するかは市原君次第だし、すぐに効果はないと承知の上よ。しばらくは『市原君通信』を送って。それで気持ちを逸らせるなら」  それから一週間ほど、その日食べたものやお客さんとの会話、新たに編み始めたテーブルランナーの進捗を写真で報告したりと、市原通信を送った。  しかし、一週間も終わりの方になると、「市原の日常を、たっちゃんさんの存在を意図的に無視してお伝えする通信」は非常に難しいという事実に気付き、徐々に、たっちゃんさん通信含む市原近況、を送るようになった。 “「宇部空港まで飛行機で行ったら、所要時間半分だし値段もたいして変わんないぞ」ってネットの予約画面入力してったら、確定ボタン押す直前に「あのさぁ、実は高い所苦手なんだよねぇ……」って言いだした。ムカついたから窓の外指差して「あ、猫ちゃん」って言って、「うそっどこどこ?!」って探してる間に確定ボタン押した。” “いいわね。高所恐怖症・辛い物好き・猫好き、は売れるアイドルの必須条件と言われているわ” “誰にだよ” “私に”  結局往路・復路とも宇部空港経由で、飛行機とシャトルバスを使うことにした。たっちゃんさんが 「どうせ門司に行くなら、二泊目福岡にして、福岡空港から乗っても良いんじゃない?中洲の屋台とか行きたいよ俺」 と言ったが却下した。 「えー、そっかぁまあ屋台はお酒飲めた方が楽しいしね!」 「そういうことじゃないんだ」 「違うの?あ、外で食べるの嫌い?」 「そういうことでもない。関門トンネルは片道じゃだめだ。門司に渡るなら、下関に戻らなきゃダメなんだ」  たっちゃんさんは全然腑に落ちない顔をしていたが、了承してくれた。花火大会の日の昼に到着して毛糸の工房に行き、二日目は下関と門司を歩いて往復し、三日目に帰京、と大まかなスケジュールを立てた。  腑に落ちないけど受け入れる、それは俺も同じだった。恋愛感情を抱くことを望んではいないが、その事実を無視することも拒むこともできないから、受け入れることにした。そうすることで少しずつ、日常生活と、恋愛感情の先が怖いという気持ちを両立できるようになった。  いや、できる、と言っていいのかは分からないけれど、いつまでも日常生活をぎこちなく送るわけにはいかないから。  カフェが休みの日、二泊三日の旅行にちょうどいいサイズの旅行鞄を買いに、ひとり渋谷に向かった。久しぶりに乗る山手線は混み合っていて、人と人の間の空気は熱いくせに、背中を擦る冷房の風だけが冷たく、電車はこういう所がさぁ、と苛ついた。  JR池袋駅構内は同じように些細な苛つきを胸に抱えた人で溢れかえり、俺が方向を間違えたなと踵を返すと、斜め後ろから微かな舌打ちが聞こえた。どうにか人ごみをすり抜け、比較的空いている東京メトロ副都心線のホームに辿り着いた。地下鉄に乗り込み、ぼんやりと英会話の広告を見ながら考えていた。  「普通」の人は、あの舌打ちしたくなる人ごみの中、きらりと光る、「三回デートしたら付き合える人」を見つけ出せるのだろうか。あるいは、その輝きを目にした瞬間に、恋に落ちたりするのだろうか。それは俺には出来ない。俺はその人ごみを傍のベンチで眺め続けても、誰かが放つ特別な輝きに気づくことはないだろう。  そんな日々の中、たっちゃんさんは俺の座るベンチにやってきて、十か月の間他愛もない会話を交わし続けてくれた。その十か月の終わりに、ようやく俺は、彼の輝きに気が付いた。だが、特別な誰かを見つけ出すことが出来たという喜びは瞬時に、その先への怖れに掻き消された。  俺には「ずっとここに座っていてくれ」「俺の知らない電車に乗らないでくれ」と言う勇気がない。もしそう伝えた結果、たっちゃんさんが、もう話すことはない、と人ごみの中に消えていったなら。俺は、いつ来るか分からない他の誰かを待つことは出来ないだろう。  地下鉄が静かに副都心線渋谷駅のホームに滑り込む。このホームと関門トンネルは、どちらの方がより深くにあるのだろうか、と考えて立ち止まる。まばらな乗客は俺を追い抜き、舌打ちをすることもなかった。
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