第8章「花火」

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 ぱんぱんのお腹を抱え、俺側の主目的である毛糸の工房に向かった。運転手さんは、細い細い入り組んだ坂道を慎重に登っていく。海沿いの大通りからちょっと入っただけなのに、うっそうと木の茂る、山の中に工房はあった。虫の声に包まれ、草の匂いが漂う。  山小屋のような、その工房の引き戸を開くと、藍色の中に白い模様が染め抜かれた、ゆったりとしたワンピースを着た女性が立っていた。髪をきっちりと結んだ、穏やかな笑顔の、うちの母さんより少し年上くらいの人だった。 「あの、ご連絡していた市原です」  自分から知らない人に声をかけるなんて、いつぶりだろう。いつも俺は、声をかけてもらうのを待っていたな、と気付いた。名字で名乗ることも、随分久しぶりだと思った。 「お待ちしてました、河村です。長旅お疲れ様でした」  河村さんは、丸くて柔らかい、それこそ毛糸玉のような声だった。眼鏡の奥で、目を細めて笑うその顔に、一気に緊張が解けた。  土間の空間の壁際に棚が並び、毛糸の玉や、麻らしきワンピースが並んでいる。ここがギャラリー兼お店なんだろう。 「この毛糸、コットンですか?」 「いえ、ウールですね」 「へぇ。なんかウールって染まりにくそうなイメージがありますけど」 「木灰の灰汁を使う、昔ながらのやり方だと、ウールも傷まずに染まるんですよ」 棚の毛糸を見ていく。俺が、これは? これは? と指さすと、たっちゃんさんが 「それはね、すーっごい暗い紫色。食べごろのぱんぱんの巨峰、みたいな感じ」 「これは、落ち着いた赤。はっきりしてるけどちょっと沈んでる……うーん、難しいな。紅葉みたいな。高貴な感じもあるなぁ」  俺が編み物雑誌で見た、青と黄色のグラデーションのウールの毛糸もあった。河村さんも説明してくれる。 「これ、青は藍で染めたんですよ。黄色はウコン」  藍染の糸のニットってすごく珍しいんじゃない? とたっちゃんさんが言う。 「そうなんです。やっぱり、手間がかかるので、なかなか作っているところはないですねぇ」  編み上がった製品なら、尚更少なそうだ。こんな糸で編んでみたい、と益々思った。  俺、これ買うためだけに来るつもりだったんだよなぁ、と思い返す。大分贅沢な時間の使い方をしようとしていたことにびっくりした。藍だけのグラデーションのものもあった。これならセーターにしても普段使いしやすそうだ。青と黄色の毛糸では靴下を編もう、と思って二種類買うことにした。  たっちゃんさんも棚の隅々まで見て、 「すごいねぇ、植物だけで染めてるのに、こんなに鮮やかなんだねぇ」  と楽しげに言った。  ここまで着いてきてくれる人、なかなかいないよな。そう思ったら、俺は自然と言っていた。 「たっちゃんさんも選んでよ。何か編むよ」  言った後で、うわ、これは重いかも、と焦って付け加えた。 「いや、別に無理にとは言わないけど。手編みとか重いし」 「いやいや、嬉しいよ。お言葉に甘えていいんですか」  それは多分、気を遣って言ってる訳じゃない。そう思いたかった。努めてなんでもない顔をして 「どーぞ」  と言った。 「え、このピンクさ、松ぼっくりって書いてある! えーすごい、これがいいな」  たっちゃんさんは、藍と白とピンクがマーブルのように混ざった糸を選んだ。 「これで、靴下にでもする?」 「いいねぇ、すごい可愛いの出来そう」 「いいのかよ、可愛くて」 「俺、可愛いもの好きだよ」  確かに、ぬいぐるみとかおもちゃとか好きだったわこの人、と思い出した。  未来の約束は出来ないって思ったけど、靴下編み上がるまでの未来くらいならと自分に許した。  タクシーを呼んでもらって、待っている間、河村さんと少し話をした。 「何で、こういう仕事されてるんですか」 「元々父が藍染をやっていたんです。その影響ですかね。大学の工芸科で染めを勉強して、卒業後すぐにここに帰ってきて……ですね」 「美大、ですよね。工芸科ってそういうこともするんだ……」 「他にも、色々やりますよ。漆器とか、織とか、陶芸とか」  俺は、美大イコール絵、としか考えてなかったし、ルイが「彫刻科とか」と言った時も跳ね除けた。 「あの、たぶんさっき見てて分かったと思うんですけど、俺、色の見え方が違ってて、上手く区別できなくて。それでも出来ることって……ない、ですかね」  河村さんは、穏やかな微笑みのまま言った。 「私の同級生にも居ましたよ。その人とは程度は違うかもしれないけれど。陶芸を専攻してて、土の質感そのままだけど、キリっとエッジの立った、ガラスみたいな形の花器を作ったりしてたなぁ。デザイン系の学科にも色弱の人居ましたし。絵の具の色番号で覚えたり、デジタルだと、カラーピッカーっていう、画像からRGBなんかのカラーコードを調べられるツールを使ったり。きっとね、やり方はいろいろありますよ」  物腰穏やかだけど、力強い言葉だった。私にはあなたの苦労は分からないけれど、みたいな変な遠慮がなくて、それは俺の腹にすとんと落ちてきた。 「就職とか、どうなんですかね」 「うーん、正直、選択肢は限られるかな。公務員とか一般企業の事務職になる人ももちろん居ます。でも、就職以前に、好きなことを勉強できるって、やっぱり楽しいことだから」  俺は、何がしたいだろう。たっちゃんさんのお客さんの図案を描くのは楽しかった。思いっきり描ける環境を目指しているルイは羨ましく、この工房で染める糸は美しくて興味深くて。  今までずっと、仕事になるか、プロになれるかだけを考えていた。  俺とたっちゃんさんで作り上げたあのフェアアイルは、一円にもならない。でも、俺たち、少なくとも俺の未来を、確実に動かした。  河村さんにお礼を言って、タクシーに乗り込んだ。車内でたっちゃんさんが言った。 「そういえばさぁ、レオがトイレに行って席外してる時に、フェアアイルの話になったんだよ」 「え、何で」 「靴下編もうかって言ってくれたじゃない。だから河村さんが、彼は編み物するんですねって。俺が、『ものすごく上手で、この旅の前に数ヶ月かけてフェアアイル完成させたんです』て言ったら、すごいびっくりしてたよ」  二重の驚きがあっただろう、と思う。そもそも若い男性がフェアアイルを編む位本気で入れ込んでいること。そして俺が、多色編みの極みみたいなものを編みきったこと。 「あー、あとね……」  少しだけ、いつもより口元の皺が深い微笑みで、たっちゃんさんが言った。 「一緒にスティーク開かせてもらったって言ったら、『とっても信頼されてますね』、ってさ」  編み物をする人には、きっと分かるだろう。数ヶ月かけて編んだ大作にハサミを入れる恐怖。それを目の前で見せ、さらに力を借りること。何とも思ってない人に、一緒に切ってなんて頼まない。あの日、ハサミの輝きだと思ったのは、それだけじゃなかったのかもしれない。  恥ずかしくはある。ただ、無意識のうちに俺は、大切だと思う気持ちを、行動として現していた。そういう自分に奇妙な信頼を感じた。
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