第8章「花火」

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花火の時間までにちゃんと食べ終えなきゃな、と思っていたけれど、それは杞憂だった。ふぐ刺しも唐揚げもふぐちりも、俺らは喋りつつも一気に食べ終え、十九時には店を出ていた。外はまだまだ明るく、そしてお腹もまだいっぱいではなかった。 「レオ、宿で『おかパー』する?」 「おかパーって何だよ」 「お菓子パーティー」  どこの方言だか知らないが、当然通じるみたいな顔で言わないで欲しい。  コンビニで飲み物とお菓子をカゴに入れていく。窓を開けて花火を見ることになるから、蚊取り線香も。テレビの中でしか見たことの無い渦巻きの蚊取り線香が、コンビニに今も売っているということに衝撃を受けた。いよいよバーチャルばあちゃん家に帰省した気分だ。  デザートコーナーのプリンを手に取ったら、たっちゃんさんが瞬時に反応した。 「あ、ズルい!デザート系買う時は一言言おうよ、レオが食べるの見てるだけになるとこだったじゃん」 「声でけぇな、コンビニのプリンで大人が騒ぐなよ」 「いや、持ち駒にプリンが有ると無いじゃ全然違うからね?」  レジにカゴを置き、電子決済しようとするとたっちゃんさんが 「ちょっとぉ!何やってんの!」 と言った 「いちいちうるせぇな。コンビニくらい払わせろ」 「絶対割るからね、宿で精算するからね、レシート取っといてよっ」  いつもなら、あ、いらないです、と言うところだけど、レシートを受け取って渋々ジーンズのポケットに仕舞った。  たっちゃんさんの声が、いつも以上にハッキリ通るのは、多分酔っているからだ。と言っても、顔は全然赤くない。いつもより二割増しで楽しそう、という感じだ。  あと約二年半後、二十歳になったとき、一緒に飲んでくれたりするんだろうか。そしたら二割増しが二倍で四割増しになったりするんだろうか。  別に恋愛とか関係なく、二年半後も仲良くしているかどうかって結構微妙なとこだよな、と思った。何せ俺は、ルイ以外の中高の同級生とはほぼ縁は切れている。それに二年半って、二十歳の時点でも人生の一割以上だ。決して短い期間じゃない。俺は、人間関係を維持する練習を怠ったまま、いきなり本番を迎えてしまった。  宿に戻る道はもう花火の見物客でごった返している。つくづくあの時宿を取って良かったと思ったし、そもそも宿を取れたことが奇跡のように思えてくる。せっかく特等席を確保できたんだから真剣に見なくてはなるまい。大急ぎでシャワーを浴び、打ち上げ開始の十分前から椅子に座って待機した。  ガラス窓と網戸を開け、蚊取り線香に火をつけた。湯上がりだからなのか、暑いからなのか、髪の生え際にずっと湿り気を感じている。その隙間を、蚊取り線香の甘いような香ばしいような匂いを纏った、ぬるい風が通り抜けた。 「たっちゃんさん、花火何年ぶり」 「ちゃんと見るのはねぇ、八? 年ぶりくらいかな。忙しかったしさぁ」 「大分久々だな。俺は、ちゃんと見るで言ったら本当に初かもしれん」 「マジで⁈」 「子どもの頃はデカい音苦手だったしさ、ちょっと成長したら『どうせ見ても』とか言い出して、母さんもばあちゃんも気使ったんだろうな」  たっちゃんさんは、気まずそうにもしないし、同情している素振りもなく、 「じゃあ、尚更今日は、楽しめるといいねぇ」  と言った。  一発目がひゅるる……と空に上っていく。  あ、来た! というたっちゃんさんの声の後、火の玉が一瞬消えた。そして嘘みたいに大きな花火がひとつ、ぱっと広がった。  額縁に納めて「花火」という題名を付けて飾りたくなるような、非現実的なくらいにアイコニックな花火。斜に構えずに正面から見た花火は、美しく正しく丸かった。  海面上でクロスする何本もの線状の花火、その上にリズミカルに、小さな花火が咲く。その造形美に見とれていると、数秒後にははるか上に、白く大きな花火が上がる。それは、あっさりと夜空に溶けていくのではなく、星を振りまくようにきらきらと瞬きながら、数秒掛けてゆっくりと去っていった。  菊の花のように光の線が垂れていくもの。光がゆっくりと大きく広がっていくもの。前の花火が残す光のその上に、次々と咲いていくもの。写真や映像から生まれた、俺の想像の中の花火が、毎秒塗り替えられていく。気づけばずっと口が開きっぱなしになっていた。  これまでの花火は前哨戦でした、とばかりに大きな花火が上がった。と思ったら、次の瞬間からはそれが普通のサイズであったかのように、次々と大きな花火が空を埋め尽くし、やがて巨大な花束になった。  俺は今、美しいものと対峙しているただの生き物だ、と思った。  カフェのことも、退学した高校のことも、これから通うだろう高校のことも、ばあちゃんもルイも母さんもかつての同級生たちも離れ、ただひとつの生き物として、この場に自分と花火しかないような、そんな気持ちになった。  でも、違った。左から「わぁ……」と声が聞こえる。  少しだけ左を見た。俺と同じく、美しいものと対峙している、人間がいた。それは、俺が好きになった人。  俺はもう一度、まっすぐ空を見た。今この瞬間、俺は好きな人と、同じ美しいものを、同じこの光景を見ている。曇りのない幸福感が涙となって溢れた。  人を好きになるのは、怖い。この先にあるかもしれない欲情が怖い。俺の中に生まれるかもしれない甘えや怠惰、嫉妬や傲慢が怖い。いや、今だって甘ったれで怠惰で傲慢だけれど、それを野放しにして嫌われたり傷付けたりすることが怖い。トンネルの先、見えない何かが怖い。  だけど俺は、人を好きになったから、誰かと同じ視界を共有するというシンプルな喜びを知った。  周囲が性に目覚めてから今日まで。約七年間の苛立ちや諦めや苦しみと、花火が打ち上げられる三十分間の幸福と。全然割に合ってないけど、俺はこの人生で良かった、と思った。そして、明日も俺のまま、この身体と心のまま目を覚ましたいと思った。  一発目の花火の五倍はありそうな、大きく、そして繊細な線で出来た花火が、間を置かず何発も、何十発も、和太鼓の演奏のように打ちあがり続けた。高台の下から拍手と歓声が聞こえてくる。そして、十五秒ほどの静寂の後、今日一番の大きさの花火が上がり、その破片がきらきらと舞い落ちた。  夜空はとうとう、暗いままになった。
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