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第9章「消失点」
翌朝目を覚ますと、もう九時だった。中途半端に昼寝し、また、初めてたっちゃんさんの剥き出しの苦しみに触れ、俺は三時近くまで眠ることが出来なかった。俺の寝坊はイコール、同行者の寝坊でもある。二人とも口には出さないが、九時起きらしくないむくんだ顔をしていた。のそのそと準備をし、出発する頃には十時になっていた。
「微妙な時間だねぇ、朝ごはんどうする?」
「コンビニで何か買って、食ってから渡るか」
宿から関門トンネルの入り口まで歩いて三分もしないから、どこかカフェにでも寄って朝食を、という感じでもなかった。
コンビニで菓子パンを買って、海沿いの遊歩道の東屋に座って食べた。もう日が高くなり、海の照り返しでずいぶん暑い。
「昨日さ、ごめんね」
乾いたパンをパックのコーヒー牛乳で流し込んでいたら、たっちゃんさんが言った。
「何が」
「気使わせちゃって」
「別に、そんなこともたまにはあるだろ。あと、一年半はさ」
少なくとも一年半は隣に居るんだし、と言おうとして、それは全然違う、ということに気付いてしまった。俺は何も確約された訳じゃない。あと一年半は何事もなく隣に居ないと、スタート地点にも立てないんだ。
そしてその一年半のカウントダウンすら、まだ始まっていない。カウントダウンは、門司に渡って帰ってきてからようやく始まるのだと気付き、その道程の長さに気が遠くなって、何も言えなくなった。
「関門トンネル人道入口」という看板の下に、大きなクジラと、その周りに三十頭くらいの小さなクジラの絵の描かれたエレベーター扉があった。身体の半分くらいの大きさの口でにっこりと笑うクジラの表情や、周りの小クジラの多さに思わず笑ってしまった。
「すげーな、ふぐばっか見てんじゃねぇぞっていうクジラサイドの圧感じるわ」
「ここまでたくさんクジラ居たらさ、逆に一匹位ふぐが……あ、いる」
「うそ、どこ」
「あのさ、おっきいクジラのしっぽの下」
「マジだ、やられたな」
よくよく見れば、小クジラの群れの中にさり気なく三~四匹ふぐが混じっていた。
定員四十名のこの大きなエレベーターが、ただの無機質な銀の扉だったら、俺たちは黙ったまま乗り込んで海底に行っていたかもしれない。ふぐ探しに気を取られて、エレベーターの矢印ボタンを押すのを忘れる位には盛り上がっていた。
緩んだ空気と俺たちを乗せたエレベーターは、地下五十五メートルまで下降していった。
扉が空くとそこは、「海底」という言葉からイメージする光景とはずいぶん違う、公共施設だな、という空間だった。
丸い太い柱がいくつか並び、柱の周りには陶器の腰掛けが置いてある。壁には、下関の観光案内や、関門トンネルの説明が展示してあった。
関門トンネルは、エレベーターを降りた左手にあった。黄色い路面に白線が引かれた、明るいけれども天井の低い、出口の見えない四角いトンネル。俺は呟いていた。
「消失点だな」
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