第9章「消失点」

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 地上へのエレベーターを降りると、そこは下関側と変わらない建物だった。  辺りは下関側よりちょっと閑散としていて、海を見ればやっぱり、対岸に建物が見える。吹いている風も下関とさして変わらないんだけれど、俺は遠い国に来たような、いよいよここからは俺達二人だけにかかっているという妙な緊張感があった。  観光列車で、門司のメインの観光地「門司港レトロ」へ向かう。ロイヤルブルーの機関車のような観光列車はずいぶん可愛らしくて、ちょっと気恥ずかしかった。そして、ファンタジーの世界の様で、ますます知らない場所に運ばれるのだ、という緊張が高まった。  たっちゃんさんは 「風が気持ちいいねぇ」  と静かに言った。  列車が出光美術館駅に到着した。道を渡って広場の向こう、ガイドブックで見たレンガ造りの建物と、その向こうに海が見える。広場の端の方、バナナの叩き売り実演、と書かれた看板を立て、法被を着たおじさんが朗々と歌い上げながらバナナを売っている。 「さあさあ、御用とお急ぎでない方は見てらっしゃい  面白可笑しく節付けて   故郷の土産に買わすのが  門司港名物バナナ売り  さあさあ買うた さあ買うた」  俺たちも緩く拍手をしながら見守る。おじさんはどんどん値を下げていく。 「なんかさぁ、つい買いたくなっちゃうね」 「流されやすすぎだろ、あの量買っちゃってどうすんの」  ぼそぼそと喋っていたら、つい買っちゃったおばあちゃんが「良かったらもらってぇ」と、俺たちにも一本ずつお裾分けしてくれた。おばあちゃんが去った後 「えーラッキー、ここで食べていいかなぁ」  とたっちゃんさんが言った。 「ダメ、絶対宿で食うぞ」 「ええ、ここで食べたほうが感じが出るでしょ」 「いや、ダメ。何かダメ」  よく分からないけれど、これは下関に渡って食べなきゃ、と強く思った。たっちゃんさんは渋々、バナナをバッグに仕舞った。 「ねぇ、俺らさ、門司に渡ることばっか考えて、着いて何するか全然考えてなかったな」 「ホントだね……これからどうしよっか」  ガイドブックの門司港レトロのページを開く。 「展望室あんじゃん。とりあえず、観光地と言えば高いとこ登る、だろ」  銀色の大きなエレベータに乗り込めば、ドアの反対側には大きな窓がある。  さっき、五十五メートル下降し、海底を渡りここに辿り着いた俺たちが、次は地上一〇三メートルの展望室に向けて上昇している。  門司港レトロの広場は遠ざかり、俺たちは少しずつ、雲に近づいていく。  すぐ下の広場と海、そしてその向こうの門司の街並みを見渡す。観光エリアだな、という区域の外、マンションや家々が立ち並び、ここにも俺の知らない生活が繰り広げられている、と実感した。  あの街並みの中、高校生の一馬さんは自転車で駆け抜けたのだろうか。話でしか知らない俺ですらそんなことを思っているんだ。俺は今、たっちゃんさんの顔を見ないのが礼儀だ、と思い、すぐ下にある跳ね上げ橋がゆっくりと上がっていくのを眺めていた。
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