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 美術部の恒例行事、花見大会の季節が(せま)った三月初旬。  最後まで美術室にいたのは、辻と静間の二人だけだった。 「サボろうかな」 「え、先輩が?」 「うん」 「でも、先輩の好きな桜をモチーフにできるし、水彩画を描く良い機会になるかと……」 「だからだよ。気持ちの整理がつかなくて。どんな気持ちで、水彩画を……あー、ごめん」  ()(つくろ)うように笑った静間は、左腕を骨折して、首から下げた三角巾に腕を収めていた。  静間の体に傷がない日はなかった。まさかとは思っても、口にする勇気はなかった。辻にとっては非現実だったから。しかし、たった今、確信する。 「あの、もしかして。先輩がよく怪我することと、関係ありますか?」 「……うん」  静間は困ったように笑い、小さく(うなず)いた。 「俺に、話してくれますか?」  静間はもう一度頷いた。 「僕の……。僕のお父さんは。僕の体を傷つけるのが好きなんだ。気の済むようにしたら、傷ついた僕を絵に描いてくれる。僕があの人の芸術」  静間は最初の言葉を発すれば、続きを淡々と言い連ねた。 「本当なんですね」 「うん」  静間が真剣に話すから、辻の手がわずかに震えだした。にやりと口角を上げ、冗談だと笑ってほしかった。けれど、静間は自身の眼帯を指した。 「この目も、そう」 「俺、どうすれば……」 「大丈夫。これは愛だから」 「は!? 何言ってんですか! だって、こんなに……! もっと、自分を大切にしてください……」  考える間もなく叫んでいた。ほとんど悲鳴だった。 「優しいんだね」  反して静間は穏やかに笑っていた。 「ねぇ。もし時間あったら、今から僕んち来てくれる? 見せたいものがあるんだ」 「……行きます。もちろん」  お父さんが帰ってくるのはもっと遅い時間だから。  一緒に帰りながら静間はそう言っていた。  西日に夜の青が(にじ)む時間。  静間家は外観も内装も、ごく普通の一軒家だった。ある一点を除いて。  リビングの先には立派なアトリエがあった。テレピンのツンとした匂いが染みついた部屋。辻にとっては馴染みのある匂いだが、この瞬間は静間の父親の影を色濃く感じ、鳥肌が立った。  辻は作業台のネイルハンマーに目がとまる。(にぶ)い銀色が黒く汚れていたのだ。 「それ、僕の血」  その言葉よりも、静間の冷たい声に息を()んだ。  辻が振り返ると、静間はF30号のキャンバスを片手に立っていた。裏返しで絵は見えない。 「お父さんは証拠を隠そうとか消そうとか、しないんだ」 「じゃあ……!」 「お父さんは僕が反抗するなんて夢にも思ってない。僕がそういう態度をとってきた。…………たった一人の、家族だから」  辻の心臓はさっきから早鐘(はやがね)を打っていた。考えがまとまらない。 「見せたいものはこれ。お父さんが描いた絵」  静間は呆気(あっけ)なくキャンバスを返した。  高い技術力で描かれた超写実派(スーパーリアリズム)。写真のようでいて、もっと生々しい。  想像を絶するような苦痛に、顔を(ゆが)める静間と目が合った。  辻は口を半開きにして、歯を震わせた。  違う。よく見れば、それは静間の顔をした女だった。水浸(みずびた)しになり、全身の皮膚は焼け(ただ)れていた。今にも獣のような絶叫をあげそうな女が、そこにいた。 「僕、お母さんと瓜二(うりふた)つなんだって」 「に、にに逃げましょう……!」 「転校先で君と出会えて、運命だと思った」 「話はあとでも――」 「聞いて!!」  静間が吠えた。  彼が声を荒らげるようなイメージはなかったから、辻は面食らった。 「写実画じゃなきゃ、お父さんは僕の絵を見なかった。お父さんに認められたかった……。だって、お父さんの存在がよぎるせいで、誰のどんな言葉も、心にたどり着く前に凍えてしまうから……! お父さんじゃなきゃって思ってた」 「先輩……」 「けど。君の言葉が僕の世界を(くつがえ)した。君が僕を見つけてくれた時、僕は舞い上がったんだ」 「…………そんな風に思っててくれたなら、どうして手を打たないんですか」 「分かんないんだ。今でも、お父さんに認められたい気持ちがなくならない……! 僕が、完璧な写実画を描けたら!!」 「先輩!!」  辻はジクジクと感情を(たかぶ)らせる静間を制止した。辻の頭はすっかり整然(せいぜん)としていた。 「な、なに……」 「きっと。いえ、絶対に。あなたの親父は、あなたの絵に興味なんかありません」 「……どうして?」 「写実画は究極の観察です。そのための目を奪うような人が、あなたの描くものに興味も、……愛も、あるはずない……!」  辻は声が震えるのを必死に(おさ)えた。  静間は一瞬呆気に取られたような表情を見せたが、すぐに眉根を寄せ、(こわ)ばった。 「そうやって僕を()きつけて。僕がお父さんを失ったら、君が代わりに、よりどころになってくれるの?」 「それは知りませんよ」 「…………え」  今度こそ静間は完全に驚いていた。  そんなに寄りかかられるのはウザいと、辻は少し苛立った。 「あなたはどうして、こう、自分のなんか、アレを他人に(ゆだ)ねようとするんですか。俺は好きな時に絵を描いて、部活はサボるし、写実画だって好きで勝手に描いてんですよ。あー、もう! 何が言いたいかっていうと、その……」 「うん……」 「先輩のしたいことは、なんですか」 「僕のしたいこと……」  辻は静間の答えを待った。 「僕は………僕、本当は。花見大会、サボりたくないなぁ」  静間は潤んできらきらした瞳を細めた。  それが(あふ)れてしまわないように、綺麗な頬に触れても許されるんじゃないだろうか。そう、思った瞬間。 「……お父さんだ」 「え」 「車が止まる音……! やばい、隠れて!」 「隠れるって……、帰ればいいんじゃ」 「馬鹿! 鉢合わせたら、殺される!!」  静間の言葉は現実味があり、クラリとした。
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