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2.
美術部の恒例行事、花見大会の季節が迫った三月初旬。
最後まで美術室にいたのは、辻と静間の二人だけだった。
「サボろうかな」
「え、先輩が?」
「うん」
「でも、先輩の好きな桜をモチーフにできるし、水彩画を描く良い機会になるかと……」
「だからだよ。気持ちの整理がつかなくて。どんな気持ちで、水彩画を……あー、ごめん」
取り繕うように笑った静間は、左腕を骨折して、首から下げた三角巾に腕を収めていた。
静間の体に傷がない日はなかった。まさかとは思っても、口にする勇気はなかった。辻にとっては非現実だったから。しかし、たった今、確信する。
「あの、もしかして。先輩がよく怪我することと、関係ありますか?」
「……うん」
静間は困ったように笑い、小さく頷いた。
「俺に、話してくれますか?」
静間はもう一度頷いた。
「僕の……。僕のお父さんは。僕の体を傷つけるのが好きなんだ。気の済むようにしたら、傷ついた僕を絵に描いてくれる。僕があの人の芸術」
静間は最初の言葉を発すれば、続きを淡々と言い連ねた。
「本当なんですね」
「うん」
静間が真剣に話すから、辻の手がわずかに震えだした。にやりと口角を上げ、冗談だと笑ってほしかった。けれど、静間は自身の眼帯を指した。
「この目も、そう」
「俺、どうすれば……」
「大丈夫。これは愛だから」
「は!? 何言ってんですか! だって、こんなに……! もっと、自分を大切にしてください……」
考える間もなく叫んでいた。ほとんど悲鳴だった。
「優しいんだね」
反して静間は穏やかに笑っていた。
「ねぇ。もし時間あったら、今から僕んち来てくれる? 見せたいものがあるんだ」
「……行きます。もちろん」
お父さんが帰ってくるのはもっと遅い時間だから。
一緒に帰りながら静間はそう言っていた。
西日に夜の青が滲む時間。
静間家は外観も内装も、ごく普通の一軒家だった。ある一点を除いて。
リビングの先には立派なアトリエがあった。テレピンのツンとした匂いが染みついた部屋。辻にとっては馴染みのある匂いだが、この瞬間は静間の父親の影を色濃く感じ、鳥肌が立った。
辻は作業台のネイルハンマーに目がとまる。鈍い銀色が黒く汚れていたのだ。
「それ、僕の血」
その言葉よりも、静間の冷たい声に息を飲んだ。
辻が振り返ると、静間はF30号のキャンバスを片手に立っていた。裏返しで絵は見えない。
「お父さんは証拠を隠そうとか消そうとか、しないんだ」
「じゃあ……!」
「お父さんは僕が反抗するなんて夢にも思ってない。僕がそういう態度をとってきた。…………たった一人の、家族だから」
辻の心臓はさっきから早鐘を打っていた。考えがまとまらない。
「見せたいものはこれ。お父さんが描いた絵」
静間は呆気なくキャンバスを返した。
高い技術力で描かれた超写実派。写真のようでいて、もっと生々しい。
想像を絶するような苦痛に、顔を歪める静間と目が合った。
辻は口を半開きにして、歯を震わせた。
違う。よく見れば、それは静間の顔をした女だった。水浸しになり、全身の皮膚は焼け爛れていた。今にも獣のような絶叫をあげそうな女が、そこにいた。
「僕、お母さんと瓜二つなんだって」
「に、にに逃げましょう……!」
「転校先で君と出会えて、運命だと思った」
「話はあとでも――」
「聞いて!!」
静間が吠えた。
彼が声を荒らげるようなイメージはなかったから、辻は面食らった。
「写実画じゃなきゃ、お父さんは僕の絵を見なかった。お父さんに認められたかった……。だって、お父さんの存在がよぎるせいで、誰のどんな言葉も、心にたどり着く前に凍えてしまうから……! お父さんじゃなきゃって思ってた」
「先輩……」
「けど。君の言葉が僕の世界を覆した。君が僕を見つけてくれた時、僕は舞い上がったんだ」
「…………そんな風に思っててくれたなら、どうして手を打たないんですか」
「分かんないんだ。今でも、お父さんに認められたい気持ちがなくならない……! 僕が、完璧な写実画を描けたら!!」
「先輩!!」
辻はジクジクと感情を昂らせる静間を制止した。辻の頭はすっかり整然としていた。
「な、なに……」
「きっと。いえ、絶対に。あなたの親父は、あなたの絵に興味なんかありません」
「……どうして?」
「写実画は究極の観察です。そのための目を奪うような人が、あなたの描くものに興味も、……愛も、あるはずない……!」
辻は声が震えるのを必死に抑えた。
静間は一瞬呆気に取られたような表情を見せたが、すぐに眉根を寄せ、強ばった。
「そうやって僕を焚きつけて。僕がお父さんを失ったら、君が代わりに、よりどころになってくれるの?」
「それは知りませんよ」
「…………え」
今度こそ静間は完全に驚いていた。
そんなに寄りかかられるのはウザいと、辻は少し苛立った。
「あなたはどうして、こう、自分のなんか、アレを他人に委ねようとするんですか。俺は好きな時に絵を描いて、部活はサボるし、写実画だって好きで勝手に描いてんですよ。あー、もう! 何が言いたいかっていうと、その……」
「うん……」
「先輩のしたいことは、なんですか」
「僕のしたいこと……」
辻は静間の答えを待った。
「僕は………僕、本当は。花見大会、サボりたくないなぁ」
静間は潤んできらきらした瞳を細めた。
それが溢れてしまわないように、綺麗な頬に触れても許されるんじゃないだろうか。そう、思った瞬間。
「……お父さんだ」
「え」
「車が止まる音……! やばい、隠れて!」
「隠れるって……、帰ればいいんじゃ」
「馬鹿! 鉢合わせたら、殺される!!」
静間の言葉は現実味があり、クラリとした。
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