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 静間は隠れる場所を探すように、辺りを見回した。  それから辻は強引にロッカーに押し込まれた。よく知った油絵の具の匂いが充満していて、画材が収納されてるのだとすぐに分かった。 「いい? 何があっても絶対に出ちゃ駄目。帰りのことはなんとかするから」  辻は固唾(かたず)を飲んだ。 「君はからね」 「先輩は大丈夫なんですよね?」  静間は笑顔を向け、扉を閉めた。  辻の正面、自身の身長よりも高い位置に、わずかな隙間(すきま)があった。そこから差し込む光以外は暗くなった。  静間の足音が遠ざかり、玄関の扉が開く音がした。静間の声と、地鳴りのように低い男の声が何かを話している。  ドスンと大きな音が響き、「黙れ!」と(すさ)まじい怒鳴り声がした。重い足音がみるみる近づいてくる。少ししてから走る足音が重なって、部屋の扉が乱暴に開かれた。  辻は両腕で押さえ込めないほど、強い震えに襲われた。 「待って、ごめんなさい」 「いまさら俺に意見しようとは、どういうつもりだ。ええ!?」  硝子(がらす)(くだ)ける甲高(かんだか)い音。  テレピンの刺激臭がロッカーの中にまで流れ込んだ。  辻は思わず()き込みそうになったのを、マスクの上から鼻を(ふさ)ぎ、なんとか(こら)えた。 「新作を描いてやる」  ボスッと鈍い音がして、静間が(うめ)いた。辻の左から右へかけて、外で何かが転がる音がした。静間が吹っ飛ばされたのだと想像できた。それからすぐに、隙間の光に左から右へ影が走った。父親が静間を追い詰める。 「女ならもっと長く使えたが、男は駄目だ。みるみるゴツくなりやがる」  ふと、自身の持っているテレピンのラベルがフラッシュのように脳裏(のうり)をよぎる。そこには『引火性あり』の注意書きがあった。  辻の呼吸は一気に乱れた。いても立ってもいられなくなって、辺りを見回す。何か頼りになりそうなものはないかと。しかし、辻の目線には絵の具のチューブばかりだった。 「……駄目だよ」 「黙れ!」  父親が静間を怒鳴りつけた。辻は今にも叫びだしたくなった。静間の言葉はきっと、自分に向けられたものだ。 「ユイはすごく綺麗だったぞ」  もう、秒読みだと思った。焦燥(しょうそう)しきった辻は、後ろにも何かないか探そうとした。そして、肘を打つ。収納が崩壊する。画材が音を立てて雪崩(なだれ)た。おまけに「うわ!」と声まで上げた。 「なんだ!」  辻の息が止まる。頭上に衝撃を受けて「いたっ」とまた声を上げた。もう、隠れるのは無理だと思った。  何が落ちてきたのかと思えば、保護用ワニスだった。白のスプレーボトルに派手なマゼンタの印刷。中央にデザインされた金色の楕円(だえん)には『油彩画用』の文字。  辻はこの画材の効果をあまり理解していない。なんとなく、仕上げに振ると良い気分がする。それだけの画材。  辻はスプレーのキャップを外した。 「お父さん!!」 「お前が連れ込んだのか。別にかまわん。二人とも殺してやる」  足音が右から近づく。  辻は蛮勇(ばんゆう)(ふる)い立て、勢いよく飛び出た。ここで死ぬんだと、鼓動が警鐘(けいしょう)を打ち鳴らしている。  飛び出た瞬間、カッと目を見開いた『父親』の顔が現れる。絶世の美男子であったが、辻には鬼の顔に見えた。  ノズルはすでに父親の顔を向いている。辻は雄叫(おたけ)びを上げながら、決死の覚悟でスプレーを噴射(ふんしゃ)した。 「ぐっ! クソガキが!」  父親は一瞬(ひる)んだが、手で顔を守るのはすぐにやめ、攻撃の体勢に振り切った。  辻はその先を思い浮かべてしまう。途端(とたん)に全身が脱力し、スプレーが手からすり抜ける。空気が抜けた風船のように無力になった。かわりに寒々とした予感が辻を支配する。  辻は頭にとてつもない衝撃を食らい、次の瞬間には床に転がっていた。視界が明滅(めいめつ)する。遅れて熱い痛みが広がり、涙が(あふ)れてとまらなくなった。  今際(いまわ)(きわ)だというのに、辻の頭は静間のことばかりだった。そして、何もかもを失敗したんだと、(さいな)まれる。  ただ、このまま冷たい床に沈みこんで、体がドロドロに溶けてなくなればいいのにと思った。  ドサリと音がして、辻の視界が影る。目の前には父親が倒れ伏していた。 「僕の想像より君は……」  声がして見上げると、ネイルハンマーを手にした静間が立っていた。辻の視界は涙でボヤけていたから、静間がをしているのかは分からなかった。
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