4人が本棚に入れています
本棚に追加
3.
静間は隠れる場所を探すように、辺りを見回した。
それから辻は強引にロッカーに押し込まれた。よく知った油絵の具の匂いが充満していて、画材が収納されてるのだとすぐに分かった。
「いい? 何があっても絶対に出ちゃ駄目。帰りのことはなんとかするから」
辻は固唾を飲んだ。
「君は隠れてればそれでいいからね」
「先輩は大丈夫なんですよね?」
静間は笑顔を向け、扉を閉めた。
辻の正面、自身の身長よりも高い位置に、わずかな隙間があった。そこから差し込む光以外は暗くなった。
静間の足音が遠ざかり、玄関の扉が開く音がした。静間の声と、地鳴りのように低い男の声が何かを話している。
ドスンと大きな音が響き、「黙れ!」と凄まじい怒鳴り声がした。重い足音がみるみる近づいてくる。少ししてから走る足音が重なって、部屋の扉が乱暴に開かれた。
辻は両腕で押さえ込めないほど、強い震えに襲われた。
「待って、ごめんなさい」
「いまさら俺に意見しようとは、どういうつもりだ。ええ!?」
硝子の砕ける甲高い音。
テレピンの刺激臭がロッカーの中にまで流れ込んだ。
辻は思わず咳き込みそうになったのを、マスクの上から鼻を塞ぎ、なんとか堪えた。
「新作を描いてやる」
ボスッと鈍い音がして、静間が呻いた。辻の左から右へかけて、外で何かが転がる音がした。静間が吹っ飛ばされたのだと想像できた。それからすぐに、隙間の光に左から右へ影が走った。父親が静間を追い詰める。
「女ならもっと長く使えたが、男は駄目だ。みるみるゴツくなりやがる」
ふと、自身の持っているテレピンのラベルがフラッシュのように脳裏をよぎる。そこには『引火性あり』の注意書きがあった。
辻の呼吸は一気に乱れた。いても立ってもいられなくなって、辺りを見回す。何か頼りになりそうなものはないかと。しかし、辻の目線には絵の具のチューブばかりだった。
「……駄目だよ」
「黙れ!」
父親が静間を怒鳴りつけた。辻は今にも叫びだしたくなった。静間の言葉はきっと、自分に向けられたものだ。
「ユイはすごく綺麗だったぞ」
もう、秒読みだと思った。焦燥しきった辻は、後ろにも何かないか探そうとした。そして、肘を打つ。収納が崩壊する。画材が音を立てて雪崩た。おまけに「うわ!」と声まで上げた。
「なんだ!」
辻の息が止まる。頭上に衝撃を受けて「いたっ」とまた声を上げた。もう、隠れるのは無理だと思った。
何が落ちてきたのかと思えば、保護用ワニスだった。白のスプレーボトルに派手なマゼンタの印刷。中央にデザインされた金色の楕円には『油彩画用』の文字。
辻はこの画材の効果をあまり理解していない。なんとなく、仕上げに振ると良い気分がする。それだけの画材だった。
辻はスプレーのキャップを外した。
「お父さん!!」
「お前が連れ込んだのか。別にかまわん。二人とも殺してやる」
足音が右から近づく。
辻は蛮勇を奮い立て、勢いよく飛び出た。ここで死ぬんだと、鼓動が警鐘を打ち鳴らしている。
飛び出た瞬間、カッと目を見開いた『父親』の顔が現れる。絶世の美男子であったが、辻には鬼の顔に見えた。
ノズルはすでに父親の顔を向いている。辻は雄叫びを上げながら、決死の覚悟でスプレーを噴射した。
「ぐっ! クソガキが!」
父親は一瞬怯んだが、手で顔を守るのはすぐにやめ、攻撃の体勢に振り切った。
辻はその先を思い浮かべてしまう。途端に全身が脱力し、スプレーが手からすり抜ける。空気が抜けた風船のように無力になった。かわりに寒々とした予感が辻を支配する。
辻は頭にとてつもない衝撃を食らい、次の瞬間には床に転がっていた。視界が明滅する。遅れて熱い痛みが広がり、涙が溢れてとまらなくなった。
今際の際だというのに、辻の頭は静間のことばかりだった。そして、何もかもを失敗したんだと、苛まれる。
ただ、このまま冷たい床に沈みこんで、体がドロドロに溶けてなくなればいいのにと思った。
ドサリと音がして、辻の視界が影る。目の前には父親が倒れ伏していた。
「僕の想像より君は……」
声がして見上げると、ネイルハンマーを手にした静間が立っていた。辻の視界は涙でボヤけていたから、静間がどんな顔をしているのかは分からなかった。
最初のコメントを投稿しよう!