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 三学期の始業式を終えた(つじ)(すばる)は、マスクの下に手を突っ込みニキビまみれの肌を掻きむしった。  今日も部活をサボって家でゲームでもしよう。なんて事はすぐにどうでもよくなった。廊下に(はりつけ)になった、大層な絵画を見上げる生徒に視線が()かれる。  綺麗な人だ。この上なく、完璧なモチーフとして。 「この絵の作者がね、僕の絵に感想を送ってくれたんだ」 「へ?」  辻は完全に見蕩(みと)れていた。  彼は辻を見つめ返していた。左目に眼帯をした彼は、それでも美しい容姿が損なわれたりはしていなかった。彼は辻の顔を見てから、胸元に視線を転じる。 「『あなたの水彩画が見てみたい』って」 「あ、もしかして桜の油絵?」  夏の美術部展。記憶が(よみがえ)る。辻にとってその絵は印象深かった。写実的なタッチでありながら、形容しがたい違和感を覚えたから。名前と学校を明記することで感想を送れると聞いていたので、(がら)にもなく感じたままを(つづ)ったのだ。  しかし、彼は違う学校だったはず。 「うん。だから、来ちゃった」 「へ!? わざわざ、転こ、いや、いやいや」  彼はうつむいて、肩を震わせていた。 「冗談。転校は偶然」 「な、なんだ」  辻はマスクを目の下いっぱいまで引き上げた。 「でも、覚えててくれたんだね。君からすれば(つたな)い絵だったでしょう?」 「いえ、そんな……」 「いいんだ。僕ら二人とも金賞だったけど、君のはただの金賞じゃなかった。完璧で、完膚(かんぷ)なきまでに」 「かいかぶりすぎですよ」 「そう? 一目瞭然だったよ」  辻は彼の視線から逃れようと、顔をそむけた。 「あ、急に驚いたよね。えーと。ありがとうって言いたくて。感想、すごく嬉しかった。気付いてくれたのは、君だけだったから」  ちらりと彼に視線を戻すと、彼は綺麗な瞳を細めていた。目が合うと、彼はまた話しだした。 「これは二人だけの秘密にしてほしいんだけど、僕、本当はね。水彩画を描きたいってずっと思ってたんだ」 「……じゃあ、描けばいいんじゃ」 「駄目だよ。写実画じゃなきゃ。君みたいな絵じゃなきゃ駄目なんだ」 「はぁ……あ。でも、片目だとデッサン取りにくいんじゃないですか? 治るまでは色彩の練習をするとか」 「もう治んないんだよね」 「な? え、もう見えないってことですか?」 「あは。そうだよ」  彼は小さく吹きだした。  彼に面白がられている気がして、辻は戸惑った。そして、失言を()びる前にある事が繋がる。 「もしかして、あの絵を描いた時も?」 「さすがだね。だから色で誤魔化した」 「あ……」 「入部届出しに部室行こうと思うんだけど、君も来るよね」 「えーと、今日はサボるので」 「……ふうん。そういう感じなんだ。んじゃ」  彼はひらりと手を振って辻に背を向けた。  なんてことはない反応だった。なのに、失望された気がしてならなかった。  フレンドリーかと思えば、淡白に突き放される。彼にどう思われているのか気になって仕方がない。 「アニキ、なんか弱くなった?」 「は? 次は勝つし」  五つも年下の小二の弟に、舐められてたまるものかともう一戦しようとした時だった。 「(すばる)! 風呂上がったんならすぐ薬塗んな! そんなんだから治んないのよ!」  母親が説教を垂れにきた。うっせぇ、ババア! と喧嘩をふっかけたい気分になったが、そんな苛立(いらだ)ちはすぐに()いだ。 「分かった」 「うわ、珍し。随分素直ね」 「これからはずっと素直だから。そうやって茶化すのなし」 「あ、そう」  母親は丁度いい温度感で捨て台詞を吐き、去った。  そういえば彼は、どうして自分が感想の送り主だと気付いたのだろう。  コントローラーを置き、薬を取る。振り返ると、ソファには雑に脱げ捨てられた学ランがあった。胸元には名札がある。  自分も彼の名札を見ておけばよかったと、辻は思った。  静間(しずま)大稀(たいき)は部活動に熱心に打ち込んでいた。  辻は静間のそういう態度を、あれがストイックってやつ? と思った。辻には無い感性だった。  美術室。  石膏(せっこう)。  斜陽(しゃよう)。 「どう?」 「線に迷いがなくて、気持ちのいいデッサンだと思います」 「ありがとう。ねぇ。悪い所も教えて」 「え」 「君には見えるんでしょ?」  眼帯をした静間に見つめられて、辻の喉はきゅっと締まった。 「ごめん。意地悪な言い方した」 「いえ……」 「遠慮なく教えてほしいな」  静間は辻の指摘を聞き、的確に線を正してゆく。  辻は静間に絵を教えるふりをして、彼の薄膜のような肌を盗み見た。  部員同士で教え合いはよくすることなのに、静間と向かい合う時間は緊張した。  ある昼休み。寒さの厳しい二月も関係なく、辻は今日も外で菓子パンを頬張(ほおば)る気でいた。  けれど、人気(ひとけ)のない校舎裏のベンチには先客(せんきゃく)がいた。眼帯に加え、頬に大きなガーゼを貼った静間が座っていたのだ。  辻は静間を眺め、立ち尽くした。  目の前の景色を切り取って、絵にするのも悪くない。けれど、絵にするなら先輩の怪我が治ってからだろうと思った。  何秒か経って、静間と目が合ってしまう。  そこで辻の夢想は破られる。(きびす)を返す。 「ちょ、ちょっと待って!」  静間はあわてたように声を上ずらせた。 「こないだ偶然ここで君を見かけて。毎日来てるみたいだから、驚かそうと」 「はい。驚きました。では」 「まってまって!」  ベンチから立ち上がった静間は、辻の腕を掴んだ。触れられた所から彼の体温が伝わって、辻は一瞬とした。 「一緒に食べようよ」 「無理です」  静間の表情は露骨(ろこつ)(くも)った。辻はまたヒヤリとした。 「あの、先輩のことが嫌って意味じゃなくて……。すみません。人前で顔を晒すのが耐えられなくて、こんな所で食べてるんです」 「でも僕、マスク外したところ見たよ。見かけたって言ったでしょ?」 「はぁ……は!? ど、どこから! どのくらいの距離から見たんですか!」 「そこ」  静間の()した窓はベンチからかなり近い距離にあった。いつだろうか。全く気付かなかった。 「特に、しててもしてなくても印象変わんないよ」 「ア、アンタ! ノンデリだろ!」 「のん? え、なに?」 「ああ、もう……!」  辻は(ひたい)(かく)すために、前髪を指でつまんで寄せた。 「僕にとって、君がどんな体で生きてようが関心ないよ」 「勝手すぎます。俺の顔を見るのはあなただけじゃないんです。皆にどう思われてるのかって、嫌なことばかり考えてしまう」 「でも、ここには二人だけだ」  静間に真っすぐに射抜(いぬ)かれて、辻は今までの比ではないほど、ヒヤリとした。 「すみません。やっぱり今すぐは無理です。その、治療中で。だから、もう少しマシになるまで待っててほしいです」 「うん。じゃあ、楽しみに待ってる」  静間と()わした約束は、辻の胸の内で強い輝きを放った。
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