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1.
三学期の始業式を終えた辻昴は、マスクの下に手を突っ込みニキビまみれの肌を掻きむしった。
今日も部活をサボって家でゲームでもしよう。なんて事はすぐにどうでもよくなった。廊下に磔になった、大層な絵画を見上げる生徒に視線が惹かれる。
綺麗な人だ。この上なく、完璧なモチーフとして。
「この絵の作者がね、僕の絵に感想を送ってくれたんだ」
「へ?」
辻は完全に見蕩れていた。
彼は辻を見つめ返していた。左目に眼帯をした彼は、それでも美しい容姿が損なわれたりはしていなかった。彼は辻の顔を見てから、胸元に視線を転じる。
「『あなたの水彩画が見てみたい』って」
「あ、もしかして桜の油絵?」
夏の美術部展。記憶が甦る。辻にとってその絵は印象深かった。写実的なタッチでありながら、形容しがたい違和感を覚えたから。名前と学校を明記することで感想を送れると聞いていたので、柄にもなく感じたままを綴ったのだ。
しかし、彼は違う学校だったはず。
「うん。だから、来ちゃった」
「へ!? わざわざ、転こ、いや、いやいや」
彼はうつむいて、肩を震わせていた。
「冗談。転校は偶然」
「な、なんだ」
辻はマスクを目の下いっぱいまで引き上げた。
「でも、覚えててくれたんだね。君からすれば拙い絵だったでしょう?」
「いえ、そんな……」
「いいんだ。僕ら二人とも金賞だったけど、君のはただの金賞じゃなかった。完璧で、完膚なきまでに」
「かいかぶりすぎですよ」
「そう? 一目瞭然だったよ」
辻は彼の視線から逃れようと、顔をそむけた。
「あ、急に驚いたよね。えーと。ありがとうって言いたくて。感想、すごく嬉しかった。気付いてくれたのは、君だけだったから」
ちらりと彼に視線を戻すと、彼は綺麗な瞳を細めていた。目が合うと、彼はまた話しだした。
「これは二人だけの秘密にしてほしいんだけど、僕、本当はね。水彩画を描きたいってずっと思ってたんだ」
「……じゃあ、描けばいいんじゃ」
「駄目だよ。写実画じゃなきゃ。君みたいな絵じゃなきゃ駄目なんだ」
「はぁ……あ。でも、片目だとデッサン取りにくいんじゃないですか? 治るまでは色彩の練習をするとか」
「もう治んないんだよね」
「な? え、もう見えないってことですか?」
「あは。そうだよ」
彼は小さく吹きだした。
彼に面白がられている気がして、辻は戸惑った。そして、失言を詫びる前にある事が繋がる。
「もしかして、あの絵を描いた時も?」
「さすがだね。だから色で誤魔化した」
「あ……」
「入部届出しに部室行こうと思うんだけど、君も来るよね」
「えーと、今日はサボるので」
「……ふうん。そういう感じなんだ。んじゃ」
彼はひらりと手を振って辻に背を向けた。
なんてことはない反応だった。なのに、失望された気がしてならなかった。
フレンドリーかと思えば、淡白に突き放される。彼にどう思われているのか気になって仕方がない。
「アニキ、なんか弱くなった?」
「は? 次は勝つし」
五つも年下の小二の弟に、舐められてたまるものかともう一戦しようとした時だった。
「昴! 風呂上がったんならすぐ薬塗んな! そんなんだから治んないのよ!」
母親が説教を垂れにきた。うっせぇ、ババア! と喧嘩をふっかけたい気分になったが、そんな苛立ちはすぐに凪いだ。
「分かった」
「うわ、珍し。随分素直ね」
「これからはずっと素直だから。そうやって茶化すのなし」
「あ、そう」
母親は丁度いい温度感で捨て台詞を吐き、去った。
そういえば彼は、どうして自分が感想の送り主だと気付いたのだろう。
コントローラーを置き、薬を取る。振り返ると、ソファには雑に脱げ捨てられた学ランがあった。胸元には名札がある。
自分も彼の名札を見ておけばよかったと、辻は思った。
静間大稀は部活動に熱心に打ち込んでいた。
辻は静間のそういう態度を、あれがストイックってやつ? と思った。辻には無い感性だった。
美術室。
石膏。
斜陽。
「どう?」
「線に迷いがなくて、気持ちのいいデッサンだと思います」
「ありがとう。ねぇ。悪い所も教えて」
「え」
「君には見えるんでしょ?」
眼帯をした静間に見つめられて、辻の喉はきゅっと締まった。
「ごめん。意地悪な言い方した」
「いえ……」
「遠慮なく教えてほしいな」
静間は辻の指摘を聞き、的確に線を正してゆく。
辻は静間に絵を教えるふりをして、彼の薄膜のような肌を盗み見た。
部員同士で教え合いはよくすることなのに、静間と向かい合う時間は緊張した。
ある昼休み。寒さの厳しい二月も関係なく、辻は今日も外で菓子パンを頬張る気でいた。
けれど、人気のない校舎裏のベンチには先客がいた。眼帯に加え、頬に大きなガーゼを貼った静間が座っていたのだ。
辻は静間を眺め、立ち尽くした。
目の前の景色を切り取って、絵にするのも悪くない。けれど、絵にするなら先輩の怪我が治ってからだろうと思った。
何秒か経って、静間と目が合ってしまう。
そこで辻の夢想は破られる。踵を返す。
「ちょ、ちょっと待って!」
静間はあわてたように声を上ずらせた。
「こないだ偶然ここで君を見かけて。毎日来てるみたいだから、驚かそうと」
「はい。驚きました。では」
「まってまって!」
ベンチから立ち上がった静間は、辻の腕を掴んだ。触れられた所から彼の体温が伝わって、辻は一瞬ヒヤリとした。
「一緒に食べようよ」
「無理です」
静間の表情は露骨に曇った。辻はまたヒヤリとした。
「あの、先輩のことが嫌って意味じゃなくて……。すみません。人前で顔を晒すのが耐えられなくて、こんな所で食べてるんです」
「でも僕、マスク外したところ見たよ。見かけたって言ったでしょ?」
「はぁ……は!? ど、どこから! どのくらいの距離から見たんですか!」
「そこ」
静間の指した窓はベンチからかなり近い距離にあった。いつだろうか。全く気付かなかった。
「特に、しててもしてなくても印象変わんないよ」
「ア、アンタ! ノンデリだろ!」
「のん? え、なに?」
「ああ、もう……!」
辻は額を隠すために、前髪を指でつまんで寄せた。
「僕にとって、君がどんな体で生きてようが関心ないよ」
「勝手すぎます。俺の顔を見るのはあなただけじゃないんです。皆にどう思われてるのかって、嫌なことばかり考えてしまう」
「でも、ここには二人だけだ」
静間に真っすぐに射抜かれて、辻は今までの比ではないほど、ヒヤリとした。
「すみません。やっぱり今すぐは無理です。その、治療中で。だから、もう少しマシになるまで待っててほしいです」
「うん。じゃあ、楽しみに待ってる」
静間と交わした約束は、辻の胸の内で強い輝きを放った。
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