第4話 薬莢の香

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第4話 薬莢の香

第4話 薬莢の香 4  曲は珠子の横顔をずっと眺めていた。  西湖の水面は夏の鈍い光を反射して銀色に輝いているのを彼女は眩しそうにする。  船が数艘、蒼い湖畔に泊まっていて、静かで涼しい。東亰よりも数度気温は低いのではないだろうか。馬車の窓から吹き込む風が珠子の髪を揺らして通り過ぎていくのを、曲は厭かずに見ている。青い富士が見えた時、珠子は目を輝かせ、その雄々しく岩肌をさらす峯に食い入るようになれば、曲は富士よりも珠子に見惚れた。 「珠姫」 「はい?」 「後悔はないか」  彼女は唐突な曲に可憐に小首を傾げる。 「なににですか」 「俺についてきたことにだよ」  珠子は穏やかな顔になる。 「ないです。後悔などしていません」 「そうか……」  理由は聞きそびれた。  曲は、しかし、それでいいと思った。彼女は狭い鳥かごから放たれて、この逃避行を楽しんでさえいる。「目覚め」を迎え、戸惑いながらも自分が鬼であることをゆっくりとだが確かに受け入れている。そして自分たちの距離も少しずつ縮まっている。それでいいではないか――。 「山荘はこの近くなのですか」 「湖の反対側だ。あと少しで着くよ」  珠子は頷き。再び窓の外の湖へと目を移した。  曲は足元にある木箱を見た。銀の弾が込められる拳銃だ。道中、気にしないようにずっとしていたが、それを見ただけで恐ろしくなる。正照老人は、なぜ、こんなものを用意していたのだろうか。あかねは未来を見る能力がわずかにあると聞いたことがある。なにか、どうしようもない危険が差し迫っているのだろうか。 「あれですか、曲さま?」  珠子が無邪気な歓喜の声を上げて、外を指差した。  湖畔に日本家屋が見えた。  本来なら珠子と新婚を祝うために作らせたというのに、こんな避難場所になるとは曲も思ってもみなかった。曲は珠子に頷いてみせて、馬車が止まると彼女の手を引いて屋敷の前にある石の階段を駆け上った。  日はいつの間にか西に傾き、疲れは極限に陥っていた。思えば、この旅でよく眠れたことなど一度もなかった。いつも緊張を張り巡らせて、珠子を守らなければと気を配っていたから。 「まぁ、子爵さまではありませんか!」  驚いた様子で出迎えたのは管理人の老夫婦だ。高田太吉と、お紅だ。箒を手にしていたのを慌てて置いて駆けよってきた。 「しばらく世話になることになった」 「ようお越しくださいました。お疲れでしょう。さあ、冷たいものをお出ししましょう」  人当たりが良く、気もきく。別の別荘を管理させていたのを、こちらに移したのは間違いではなかった。珠子が「お世話になります」とぺこりとお辞儀する。 「旅館ではないんだ。気を遣わなくていい」  曲はそう珠子に言ったが、彼女は勝手の方へ行ってしまった。馬車に乗っていたとはいえ、長旅だ。疲れているはずなのに、彼女はたすきを掛けて、炊事をしようとしている。  曲は珠子を追いかけて勝手の土間に足を踏み入れた。彼女は、そこにあるものを確認しており、「お茄子にキュウリにお味噌、お米」などと指を指しながら数えている。まったく働き者だ。子爵夫人であることをすっかり忘れている。堂々と、蓄音機で円舞曲(ワルツ)などを聴きながら好きな沙翁の読書でもして膳が並ぶのを待っていればいいのに。 「珠子。少し休んだ方がいい。ここはお紅に任せるんだ」 「そうでございますよ。どうぞ座敷にお上がりになってお休みください。侯爵家のお姫さまがいらっしゃるところではありませんよ」  管理人の老婆、お紅(こう)にも言われて、珠子は 「でも、なにかお手伝いを……」と言ったが、老女に背を押されて仕方なく、座敷に上がった。  長く長瀬喜一に預けすぎたかもしれない。厳格な男はこれは君命であると養い子をどこに出しても恥ずかしくないように厳しく躾けた。彼なりの最善な娘にだ。それは悪くない。気遣いのできる人に育った。しかし子爵夫人としては少々、働き者すぎるのではあるまいか。もっと贅沢にのんびりさせてやりたいと曲は思う。 「こちらです」  太吉が長い廊下の前で止まった。 「この一番奥のお部屋が子爵ご夫妻のお部屋でございます。お疲れでございましょう。お食事は続き間にお持ちいたします」  二人の部屋だと聞いて珠子は戸惑った様子だが、曲は彼女の手を引いてガラス戸のある廊下を歩いた。  裏庭には、日本庭園に小さな池があった。曲もここに来るのは初めてで、なかなかのできだと思う。梁も欄間も立派であるし、職人がこだわったという大石が置かれ、袖垣の向こうに富士が見えれば、曲も満足顔になる。 「よいところですね、曲さま」 「ああ」  歪なガラスに映る珠子の横顔は美しかった。手を伸ばせば、そこに彼女がいる。安堵が胸に染み入るが、彼女を付け狙う輩はそう遠くない日にここを見つけるだろう。それでも今は安らぎを感じていたかった。 「曲さま」  ふすまを開けて曲は固まる。太吉が慌ててしたくしたのだろうが、奥座敷には布団が一組敷かれ、枕が二つ置いてあるだけだった。旅の途中のボロ宿では、布団を一組しかなかったので、仕方なくそれを受け入れた珠子が今更、戸惑いを見せるのはおかしな話とはいえ、顔を強ばらせたのが分かった。 「畳が青くていい香りですね……」  珠子は明らかに布団の話に触れないように話題を振った。 「そ、そうだな……」 「お疲れでしょう? 曲さま、少しお休みください」 「布団を敷き忘れたんだろう。珠子が先に休むといい。俺はもう一組み敷くように言ってくる」  曲はそう言ったが、具合は本調子ではない。ふらりとし、廊下にたどりつけず畳の上でうずくまった。珠子が心配した様子で駆け寄り、その背を優しく撫でてくれた。 「痛いところはありますか」 「いや……疲労感があるだけだ……」 「少し横になってお休みください」 「ここにいてくれ」 「はい……」  珠子の肩を借りて布団に曲は布団に横になると、彼女は傍らで正座し、曲の髪を撫でながら、幼子にするように鼻歌を歌う。それは子供の頃に曲が欲していた温もりだった。穏やかな愛情と静かな時――。  ただ、まだ日は高い。体は疲れていても、曲の頭は目覚めているようで眠りは浅い。 ――珠子。  曲はちらりと彼女を見る。  珠子をボロ宿で抱きしめた感覚をまだ曲の肌は覚えていて、裾と足袋の間から見えるくるぶしや、衣紋を抜いてわずかに見える首筋を目で追ってしまう。柔らかな肌は、曲のために存在しているような気持ちにさせた。  思えば、珠子への片思いは長い。  曲が肥汲みをしていた頃からだから、初恋と言っていい。父は鬼の一族である黒木家分家の当主だったが、分家はそもそも陽の気の人が多く、父も母も陽の気のある人たちで稀に見る強い陰の気の曲を嫌った。  不気味で憎しみに溢れた目と制御できない力が厭われた理由だったと聞くが、曲にはよくわからない。両親は自分たちに手に負えない未知なる陰気が恐ろしかったのではと今は思う。鬼の角も十一歳まで隠すこともできず、人から隠れるように暮らさなければならなかったのも恥だと思われていた。  庇護者がそんな風だったから、分家の当主の息子でありながら、ろくに食事も与えられず、家の肥をすくい、畑にまき、一族の使用人が住む長屋の肥汲みでおこぼれをもらって過ごしていた。飢えがひどい時は陰気が強いため、蛆さえも食べた。それが一族の者が彼をさらに賤しむ理由となり、誰も相手にしなくなった。  それなのに――。 「お父さま、見て! この子はわたしと反対なのよ! 見て、見て!!」  珠子がたまたま学校の帰りに分家に遊びに来、曲を見つけると、手を引いて先代侯爵の元に連れていった。真冬につんつるてんの浴衣姿だったのを覚えている。珠子が握った手があかぎれだらけで、よく洗ってもいないので真っ黒に汚れていたのを申し訳なく思ったのを曲は今も恥ずかしく覚えている。だが、先代は曲を見ると少し瞠目し、そして額に手を当てた。 「希有なるかな、希有なるかな」  先代が言ったのはその言葉だけだ。それからいつの間にか、曲は珠子の結婚相手となり、分家の当主、ひいては本家の主になることが決められた。 「まがつ者めが!」  父母の罵倒がいつしか、 「我がいつくしい子」となった。  その笑顔の裏側を知っている曲は子供ながらに父母への不信と人への疑心を抱くようになったが、それは子爵を継いだ後に事業をするにも人間関係でも、ある種の冷静さと観察眼を養わせたから、唯一、両親に感謝すべきことかもしれない。 「曲さま!」  ただ、今思い出すのは、父母のことではない。肩上げされた桃色の振り袖を着た珠子のことだけだ。その着物の蝶と同じようにいつも袖をひらひらさせながら走っている様子は闊達で眩しいほど汚れがなかった。彼女は純真で、彼が洋装して金時計をしていようが肥だらけのボロを纏おうが関係なく優しい。  それから二人は華燭を上げ、成り上がり者よと蔑まれながらも、曲が懸命の努力してきたのは、珠子に愛されたいという思いからだった。  だから、抱きしめたいという欲望と、大切にしなければと思いが交差する。曲は瞼を強く瞑り「焦りは禁物だ」と自分に言い聞かせた。それなのに――。 「曲さま、お休みですか」  うとうととしかけた時、彼女の手が伸びてきて、彼の背中に触れた。珠子は真珠をすり鉢でつぶしているところのようだ。薬の効き目は潰してできるだけすぐに飲むのがいい。珠子も疲れているだろうに、看病してくれているのはありがたい。  曲は半身を起こした。 「珠姫も布団を敷かせて寝ていればよかったのに」 「いえ、起こしてしまって申し訳ありません」 「いや……枕が違うとぐっすりは眠れないようだ。うつらうつらしていただけだよ」  努めて冷静な声で言うと、珠子は頷いた。 「悪い夢を見ていたご様子でしたので……悩みましたが、起こさせていただきました」 「そうか」 「うなされておいででした」 「心配いらない。ただ、子供の頃の夢を見ただけだよ」 「そうでしたか……」  珠子は紙に包んだ真珠の粉と水が入った青い切り子のコップを差し出した。指先と指先が触れ、珠子は慌てて引っ込めて、曲は苦笑した。昨晩は二人で一つの布団に寝たのに、恥じらうのは美しい。 「早くお飲みになってください。効き目が悪くなります」  珠子が急かし、曲は珠子の陽の気が凝縮した真珠の粉を一気に飲み干した。これがなければ、一体自分はどうなっていたことか。 「大丈夫だよ。少しだけ、珠姫も横になるといい。疲れただろう?」 「はい……」 「俺は少し起きるから、寝るといい」  珠子も心底疲れているようだった。曲は自分が寝ていた場所を譲って、布団を掛けた彼女の背をポンポンと叩いてやった。するとよほど疲れがたまっていたのだろう。眠りに落ちるように寝息を立てた。日の光が差し込む襖を閉めてやろうと立ち上がりかけたとき、廊下を歩く人の足音が聞こえた。 「子爵」  ふすまの向こうから遠慮がちな声がする。仲山だ。 「お食事の用意ができましたが、いかがしますか。次の間にお運びしますか」 「いや、珠姫が休んだばかりだから、居間で食べる。食事は後で用意し温め直すように言ってくれ」 「かしこまりました」  曲はシャツのボタンを上まで留めると、珠子の頭を撫でてから立ち上がった。 「田舎料理でお口に合うかどうか」  早い夕食は、煮物とほうとうだった。味噌のいい匂いがする。疲れていたから、腹一杯に食べたいと思った。味は田舎のもので、濃そうだったが、お紅の料理には定評がある。曲は老女は、年のせいだろうか、わずかに手を震わせて紋の入った漆の膳を捧げるように曲の前に置いた。疲れていた曲はそのよい匂いにすぐに椀を受け取って汁をすすった。しかし――。 「くそ!」  曲はすぐに飲んだものを吐き出した。  銀が盛られていたのだ。血が口から滴った。おそらく銀の玉かなにかを野菜の中に仕込んでいたのだ。  しかも、それを待っていたかのように、ドタドタと足音がしたかと思うと顔を隠した男二人が土足で現れた。陰の気を放つ。黒い影は、波となって弱り、畳に這っている曲に迫る。 「子爵!」  仲山の悲痛な声がする。彼は曲を守ろうと気を放つが、仲山は頭は良くても鬼としての能力は大してことがない。刺客の気に吹き飛ばされ、柱に頭をぶつけると額から血を流して倒れた。  ――もうだめか……。  しかし、そこに大きな音がした。瞳をあげれば、両手で拳銃を握り締める珠子の姿があった。 「曲さま!」  構えた珠子。  拳銃の「パン!」と爆ぜる音と、薬きょうの臭いが立ちこめた。 「珠姫!」
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