第14話 取り戻した記憶の欠片

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第14話 取り戻した記憶の欠片

第14話 取り戻した記憶の欠片 14 「嫌です、お父さま」 「お前にためだ」 「お父さま!」 「我が儘は許さぬ」  夢の中で袴姿の中年の男が床の間の前に座っていた。珠子の横に座らされている十一歳の曲は反抗的な目をしていたが、どこか打ちひしがれているように見えた。 「珠子が力をなくしたことを一族の者に知られれば、曲は当主になれぬ」 「でも、記憶を封じるなんて……」 「口答えするな!」  父、黒木侯爵はとても厳格な人だった。  黒木家は南北朝時代より主上に仕える青侍として興った家だ。応仁の乱の折、帝を助けた功として無品の宮が降嫁し、その後、戦国時代に大名となった。ご一新後も臣下は多く、敵もいないわけではなかった。一族を率いるのは簡単なことではなかったはずだ。父の決定は絶対だった。 「またお父さまにお会い出来るんですよね?」  珠子は曲に言った。 「ああ……いつも見守っているよ」  父の大きな手のひらが珠子の顔を覆った。  そして、黒木珠子は長瀬珠子となり、すべて忘れたのだ。  珠子ははっと目覚めた。  ずいぶん長く寝た気がしたが、暖炉の上の置き時計を見れば、四半時と眠っていなかった。曲は相変わらず熱と痛みに苦しんでいる。 「曲さま……」  珠子は熱が下がったのを感じた。代わりに曲の額は燃えるように熱い。 「具合はどうだ」  彼が少し目を開けた。 「少しよくなりました」 「よかった」  彼は心底、安心した顔をした。  彼はベッドから顔だけ背け、なにかを吐き出した。それが、黒い蠅に似た虫数十匹であることに気づくと、珠子は恐れたが、曲が恥じるそぶりを見せたので、背を撫でた。 「大丈夫ですか」 「ああ。すまない……俺は穢れの陰の力しかないから、こんなものが体から出て来るんだ」 「わたしを守ってくださっているのは分かっています。わたしのせいでごめんなさい」  力なく曲が微笑んだ。 「十まで肥を汲んで人間に紛れて暮らしていた。喰うのは、人間が吐き出した悪意の固まりと肥にたかったこういう虫だった……」 「曲さま」 「曲曲しいと親に捨てられ、与えられたのは、曲曲しい「曲」という名だけだった。それを珠姫が華族学校の脇で見つけた」  珠子は彼の青い顔を覗き込む。 「『お父さま、この子、珠子と反対なんです』と言って、肥桶を握っている俺を馬車に乗せ、侯爵に引き合わせてくれたんだ」 「まあ」 「侯爵は俺は曲曲しいが、珠姫は陽気が強すぎるから、一緒にいるのにちょうどいいと言って、お付きにしてくださった。それさえもこれ以上にない名誉であったのに、珠子には立派な許婚がいたにも関わらず、それを破談にしてまでして、侯爵は俺を珠姫の夫にしてくださった。感謝しても仕切れない。だからこれぐらいなんでもないんだ」  珠子は一生懸命背をさすって、曲が死んだ蛆を吐き出すのを助けたけれど、外が急に明るくなった。昼のように明るく、きな臭い。珠子は手を止めた。 「子爵、大変です」  大きな音がしたかと思うと、仲山がドアをノックもなしに開けた。 「火事です」 「火事? 消せ」  なんでもないことのように曲が言い咳き込む。 「消せません。呪いが込められた火です。水でも消えませんし、我らの力では及びません」  曲が珠子の手を借りて起き上がる。 「肇の後見をもくろみ、一族を我が物にしようとしている公芳の間者が邸にいたんだ。以前からこの日のために準備してきたに違いない」 「馬車を回しました。お逃げください。今、襲われたらひとたまりもありません」 「珠姫を頼む」  珠子は首を横に振った。 「わたしは歩けます、仲山さん、曲さんに肩を貸してあげてください」 「はい」  煙がそこまで来ていたが、曲はチェストからなにかを探し、ズボンのポケットに突っ込んだ。 「行きましょう」  珠子は仏蘭西窓を開けてテラスに出た。この家の二階のテラスには外階段があるのが幸いした。珠子は寝衣に仲山のジャケットを羽織って裸足のまま外に出る。犬――いやニホンオオカミが十頭ほどけたたましく吠えていた。 「直臣が置いて行ったのか」 「そのようです」 「まあ、いい」  曲を二人がかりで馬車に乗せ、馭者が馬の尻に鞭を打つと馬車は勢いよく走り出した。オオカミたちがそれを後ろから追いかける。途中、覆面をした黒衣の男たちは馬車を止めようと立ちはだかったが、馭者はそのまま勢いよく門を通り抜け、オオカミたちが襲った。 「逃げ切れるといいのですが……」  仲山が振り返りながら言った。 「大丈夫だ」  ごほごほと咳き込んで珠子が吐き出した真珠を曲は彼女に握らせた。 「珠姫、頼む、力を目覚めさせてくれ。追っ手を撒くのに必要だ」 「は、はい。でもわたし、やり方なんか知りません」 「真珠に思いを込めるんだ。逃げたいとね」  珠子は凜々しい曲の眉を見つめながら頷く。逃げたいというのは、居間の最大の願いだ。両手の中に一粒の真珠を握ると必死に祈った。「お願いします、どうか助けてください。逃げたいんです」  曲はその珠を受け取ると、自分がハンカチの中に吐き出した虫と一緒に窓から投げた。  すると白い煙となって馬車の後ろを包んだ。 「これで撒ける。どこへなりと行こう」  曲が珠子の腕の中に倒れ込み、体重を預けた。
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