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第2章 第1話 逃避行
第2章 第1話 逃避行
第二章
1
珠子は馬車の中でずっと曲の背を撫でていたが、彼は居心地が悪そうで、ひたすらハンカチを口元に当てて吐き気を我慢している。
「吐いてしまえばいいのに」
我慢する意味が分からなかったが、曲は意地でも珠子の前で蛆を吐き出そうとはしなかった。
「子爵……」
同乗している仲山も案じ顔だ。
まだ夜明け前で通りにはほとんど人がいない。珠子は手を伸ばして曲側の窓を開けて、彼を促す。
「さあ、吐いてしまってください。人が見咎める前に」
珠子は優しく彼の背を何度も撫でた。
彼はついにこみ上げるものを堪えきれなくなって、窓から身を乗り出して、腹にあるものを全て出した。胃液も蛆も……。
「すまない」
背もたれにつらそうに戻った曲が謝った。
「なにを謝罪する必要があるのですか」
「夫がこんな気持ちの悪い存在とは思わなかっただろう? 三つ揃いを着て、子爵などになっても、俺は禍つ子で、俺の体のほとんどは穢れている」
珠子は彼の悲しみに涙が出た。痛みに震えている手を握って、必死に首を振った。
「そんなことありません」
力なく微笑む曲。珠子はその肩に頭を寄せた。
「そんなことありません」
泣いてしまうのは、彼が珠子の痛みを肩代わりしてくれたのを知っているから。急にできた夫で、なんの思いもなかったはずなのに、曲の人柄に触れると珠子はどんどん彼に惹かれていた。口から蛆を吐き出す? そんなことはどうでもよかった。真珠を吐き出す自分ですら普通ではない。
「どうにかなりませんか、薬とか」
珠子は曲を自分の膝に寝かせると、仲山に尋ねる。
「やがてよくなられます」
「やがてっていつですか?」
「明日かもしれませんし、十日後、来月やも」
「こんなに苦しんでいるのに……」
珠子は眠る曲の頭を撫でた。
「そばにいてさし上げてください。それが一番です」
「接吻したら、わたしに苦痛はまた戻りますか」
「珠姫さま、子爵の思いを汲んで耐えてください」
どう耐えればいいと言うのか。珠子は、不甲斐ない自分が嫌だった。誰かが自分のために苦しむ姿など見たくない。曲は気の毒なほど弱り、外国人が設計した豪華洋館は火に燃え落ち、ここからでも煙が天に昇っているのが見える。
しかも、これから逃避行するしかないなど、受け入れられない事実だった。
「どこに向かっているのですか」
「甲州です」
「甲州?」
「別荘がありますのでそこに一時、避難します」
「別荘ではすぐに分かってしまいませんか」
仲山はにこりとした。
「珠子さまをお迎えしたらお連れしようと建てたものです。人に知られると困りますので、誰にもそれが子爵のお持ちものだとは知られないようにと、請け負った大工の棟梁ですら、子爵家のしの字も知りません」
それほど大きくない日本家屋の邸で、山梨県の西湖の近くなのだという。
「でもこの馬車で甲州まで行けるのでしょうか」
「途中、どこかで泊まらなければなりませんね……」
仲山は甲州街道で甲府を目指すという。何日かかるのだろうか。
「ご不自由をおかけします」
「わたしは平気です。でも子爵が……」
「お強い方です。ご案じ召されますな」
珠子は目を瞑った。
珠子もまだ具合が万全ではなく、疲労感でうつらうつらするし、目を瞑ると、目頭から真珠が落ちる。それを丁寧に仲山は拾いポケットにいれていた。なんのためにとっておくのか、聞く元気はなかった。そしていつしか、珠子は眠りの底に落ちた。
目覚めた時、もうあたりは暗かった。早朝、屋敷を出たはずなのに、時間が経つのが早すぎる。おそらく眠り薬を飲んだせいかもしれなかった。長時間、同じ体勢だったのか首が痛かった。
「ここは?」
もう甲斐国だろうか。
仲山が答えた。
「甲州街道の裏街道を行っています」
ガス灯一つない山道をゆく。気味の悪い鳥の声ばかりが聞こえてくる。やがて灯りが見えたかと思うと、崖にへばりつくように鄙びた宿が建っていた。宿というよりおんぼろ小屋と言った方がいいかもしれない。藁葺き屋根に草が生えていて、樋は曲がって水を吐くようには見えなかった。
「今夜はここに泊まります」
仲山は申し訳なさそうに言ったが、言葉を撤回する気はないようだ。どんどん馬車から降りると、曲に肩を貸して先に行く。珠子も不安を抱きながら馬車から降りた。
「くううん」
甘える鳴き声がして後ろを見れば、ニホンオオカミが三頭いる。
「あなたたちついてきたの?」
可哀想に疲れ切っている様子だ。なにか食事を出してやらなければと撫でてやると、仲山が玄関から戻ってきた。
「子爵が触らないようにとおっしゃっています」
「なぜですか」
噛みついたりしないのにと思う珠子に仲山が言う。
「獣の臭いがつくのがお嫌なのです。これをやれば静かになります」
珠子が吐いた真珠の珠だ。手渡されて、困惑すると、オオカミたちがペロリと珠を食べた。一匹に四粒ずつ与えると満足顔に身繕いを始める。
「珠姫さまには陽気があるので、その真珠を取ると疲労がとれるのです。食事せずともこれで数日平気になります」
「そうなんですね」
「私もいくつかいただきました」
当然であるが、仲山もまた人ではなかったのだ。
「あの子たちは花崎男爵のところのオオカミさんですか」
「男爵の眷属です。人間の形にはなりませんが、動物ではなく妖かしです。花崎家の面々は私に任せて、中にお入りください。湯の支度をさせてあります。獣の臭いを落としてください」
「は、はい」
珠子はこっそりもう一撫でするとオオカミたちを置いて玄関の敷居を跨いだ。すると、そこに八十は少なくとも年を重ねた老婆が背をくの字に曲げて立っていた。どうやらこの宿の主のようで一行を迎えてくれているらしかった。
しかし宿と言っていいのだろうか、戸を開いてすぐに水甕があり、蓑が壁に下がっている。背負子が入り口脇に掛けられ、奥に竈があり、壁に神棚があった。余分なものは何もなく、必要最小限のものしかない。老婆は歯の抜けた笑みを向けた。
「よう、遠くから来なさった」
「お世話になります」
彼女も妖かしだろうか。妖かしだと言われてもおかしくないほど年を取っていた。が、珠子は訊ねずに玄関を上がり、柱に掴まって馭者と仲山に支えられている曲のところに行く。畳は敷いていない板張りだ。
「犬に触らないでくれ」
「あれは犬ではなく、オオカミです」
「どちらでもいいから、触らないでくれ。具合が悪いのに嫉妬で腹まで立ってくる」
珠子は、なぜ曲が、そんなにオオカミを嫌うのか分からずに頭を横に傾けるも、尋ねる前に老婆が枕を抱えて現れた。
「部屋は二つしか空いておりませんのでね。四畳半が一つに、三畳が一つ」
宿とは言っても普段は家族がその部屋を使っているようで、人の気配が奥の一間からした。当然珠子は、自分が三畳間を、四畳半を曲、仲山、馭者の三人だろうと思ったが、看病する人は必要だ。
「ここにいてくれ、珠姫」
そう言われると否とは言えない。
「交代で湯に入りましょう。珠子さま、お先にどうぞ。その間、子爵の様子を見ております」
「はい。ではお願いします」
もちろん湯は薪で、入る時は沸かす手間が掛かる。さっさと入って出て来るのが礼儀だ。
珠子は浴衣を老婆から借りると、先に入れと言われた風呂に行く。それは宿の北側、畑のすぐ近くにあって夜風が吹き付ける掘っ立て小屋の中にあった。脱衣する場所などなく、五右衛門風呂は少し熱いくらいの湯加減で老婆の孫だろうか、少年が顔をすすだらけにして一生懸命、木を焼べてくれていた。
「ありがとう」
珠子が窓格子越しに礼を言うと、はにかんだ笑顔を残して少年は去って行った。珠子はのぼせる前に風呂から出た。襦袢を羽織り、博多帯を結んだ時に、外から声がした。
「珠姫」
聞き覚えがある。珠子は慌てて窓の近くに寄った。
「花崎さまですか?」
「ええ……」
「どうされたのですか」
「実はちょっと怪我をしまして」
珠子は薄汚れた窓を腕で拭き、ちらりと外を見た。花崎直臣が小屋の陰に腕を庇って立っている。
「それなら宿の中にお入りください。手当をしましょう」
「いえ……曲と少し口論をした後でして」
花崎が窓に背を向けたので、珠子は着物をさっと着ると、建て付けの悪い引き戸を開けた。
「どうなさったの?」
花崎に駆け寄ると、腕はざっくりと斬られて血がぽたぽたと地面を濡らしていた。
「たいしたことはないのです」
「でも血がたくさん。なにがあったのですか」
「オオカミたちにあなたを追わせていたのを臭いをたよりにさらに追っていました。峠で黒木公芳の手の者を何人か斬ったのですが、不覚をとりました」
珠子は持っていた着物の襦袢を裂くと、彼の腕にしっかりと巻いた。
「子爵は具合を悪くしてすでにやすんでおります。中に入られても気づかないとおもいます。中で手当しましょう」
珠子は、案じてそう言ったが、花崎は頑なに首を振る。
「それよりも、厚かましいのですが、真珠をお持ちではありませんか。いくつか頂けたらだいぶよくなると思うのです」
長い髪を煩わしそうに耳に挟んで花崎直臣は帽子を被り直した。落ち着かず、絶えず宿の方を気にする。曲に気づかれるのを恐れているようだ。
「ええ、持っています」
着物を脱いだ時に、涙を拭いた時に紛れ込んだ袖に二十粒ばかりがあるのを思い出して珠子は手を差し出すと、花崎がそれを握った。夏虫がじんじーんと鳴いていた。
「ありがとう、珠姫」
「東亰にお帰りになるのですか」
「ええ。ここまでくればあなたも安全でしょう。それに東亰の様子を探る人間も必要ですから」
「感謝しています、男爵」
「直臣です」
「はい?」
「直臣とお呼びください」
「…………」
彼の眼差しは真剣なものだった。やはり、珠子は直臣のことを知っているような気がしてその目を覗き込む。
「直臣さま……やっぱりわたし、あなたを知っているような気がします」
「それは……きっと気のせいです。では、失礼しました」
直臣は畑の草むらの方を走って行った。数頭のオオカミがそれを追い、いつしか彼の姿も群の中に消える。珠子は畳んだ着物を抱き直すと母屋へと急いだ。
――曲さま。
曲はすでに布団に横になっていて、真珠を砕いたものだろうか、薬のようなものを仲山が曲に飲ませ、去って行くところだった。曲は、珠子が濡れた髪で戻って来たのに気づくと、月明かりと行灯が一つあるだけの屋の中で寝返りを打ってこちらを見た。
「直臣が来たのか」
「はい。怪我をされていて――」
曲の手が珠子の手首を引いた。
「ふとんは一つしかない。狭いが許してくれ」
「あっ」
病気とは思えぬしっかりした力で曲は珠子を埃っぽい布団の中に引き入れた。腕の中で珠子は震えた。曲はそんな彼女の背を抱いた。
「なにもしない。だから怖がらないでくれ」
裸足のつま先が彼の足と絡まった。
腕から逃れようとして着物がはだける。
珠子は怖かった。
「お離しください」
声を上げたが、「なにもしない」と言った曲の体はしっかりと珠子を逃さない。
「具合が悪いのではありませんか」
「直臣の臭いがした。獣の臭いは嫌いだ」
「お怪我されたようです。追っ手と戦ったそうで」
「ふん。余分なことをする」
彼は不機嫌に鼻を鳴らしたが、花岡が触れた手を自分のふところの中に入れた。
「こうしていればあいつの臭いが消える」
「…………」
彼の声が安らかになった。そして具合が悪いのか、咳き込む。珠子は枕元の急須に入った水に手を伸ばそうとして止められた。
「こうさせていてくれ。明日の朝には良くなっている。珠姫といると陰陽が調和する。とても心地いいんだ」
「はい」
珠子は男に抱きしめられたまま天井を見つめた。蠅が羽音を立てて飛んでいるが、その羽ばたきがしっかりと見えた。窓の向こうの月はいつもより大きく見え、横にいる曲の心臓の音や血液がめぐる音さえも聞こえた。それはなにやら不思議な感覚だった。今までとは全く違うように全てが見える。こんなに暗いのに、どうして箪笥の上の埃などが目につくのだろう。
「珠姫?」
曲が心配げに言った。
「なんでもありません。おやすみください」
「目覚め」を迎え、鬼の一人となったのだ。珠子はそれを自覚した。
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