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第2話 逃げたくない
第2話 逃げたくない
2
翌朝、たばこの臭いで珠子は目を覚ました。
曲が窓を開け欄干に寄りかかりながら山々を霧が這う様を眺めていた。手には一本煙草があり、白い靄に煙が紛れるように消えていた。
「具合はいかがですか」
まだ化粧もしておらず恥ずかしいので珠子は布団から目だけだして訊ねた。
「だいぶいいようだよ」
曲はまだ半分も吸っていないたばこを止めた。
「わたしに気兼ねされなくてもいいんですよ」
珠子は微笑んだが、彼は苦笑する。
「意志が強くなくて恥ずかしいが、あなたの寝顔を見ていたら、これを最後にしようと思った。これ以上、汚いものを吐きたくないから」
乱れた髪を見られるのが嫌で少し悩んだが、珠子は浴衣の裾の乱れを直すと、二階の窓に身を乗り出すようにしている彼に近づいた。高欄の下は断崖絶壁。曲は珠子の手を取ると親指で愛おしげに甲を撫で、額に唇を重ねる。
「夕べは正直、あまりよく眠れなかった」
「わたし、寝相が悪かったですか。もしかして、いびきかいていたりしましたか?」
珠子が心配になると、曲が苦笑する。
「いや。妻との共寝の一瞬が一瞬が惜しくて寝られなかったんだ」
男の手が伸びて、珠子の乱れ髪を直す。が、まだ顔が青白く見えるのは、体が本調子ではないからだろう。珠子は気遣うように彼の頬に手を添えた。
「具合が悪そうです。もう少し休まれたら?」
「大量の陽気を吸って陰陽が乱れているんだ。そのうちましになるよ」
「わたしにできることはないんですか。なんでもします」
彼は珠子の腰に手を回した。
「急ぎたくない」
「なにをですか」
「あなたが俺のことを愛してくれるまでは待つつもりだ」
珠子は首を傾げた。
「陰陽は夫婦になれば自然に治る。俺の陰気をあなたが、あなたの陽気を俺が得て、中和されるからだ」
「でも、わたしたちはすでに夫婦だと――」
そこまで言って珠子は自分が馬鹿なことを言ったことに気づいて頬を燃やした。俯くと、曲の指が珠子の唇に触れた。
「接吻すらできないのがもどかしい」
「…………」
「俺は出ているから着替えるといい。途中、一族の長老の家に行くことにした」
「長老ですか?」
「力添えを頼む」
珠子は頷いた。一族の人間が秘境に多く隠れ住んでいるのだという。宿の若い娘のセルの着物に着替えて、麦飯の朝食を食べると馬車に乗った。昨日の馬とは違う足の太い馬が二頭繋がれていた。仲山が言った。
「上りになるのです」
華族が好む足の長いアラブ馬では山は登れない。荷場を借りてきたのだそうだ。
「見た目は悪いが、よく働く馬じゃで」
宿屋の老婆も胸を張ってそう請け負った。
「お世話になりました」
麦の握り飯を持たせてくれたのはありがたかった。オオカミたちはもうおらず、花岡とともに東亰に戻ったのだろう。曲が貸してくれた手を取って珠子は馬車に乗り込めば、ゆっくりと馬車が動き出した。
「真珠を持って来たのはよかった。馬に食べさせたから、上りも楽々進んでくれるだろう」
「お役に立ててなによりです。それより――その隠れ里とは、ここからどれぐらいですか」
「そうはかからないよ」
珠子は窓の外を見た。林に挟まれた暗い山道を登っていく。不安そうに見えたのだろうか。曲が、仲山に分からないように、ひざ掛けの中で珠子の手を握った。
「長老は黒木正照さまという。珠子の大伯父に当たる方で、長らく隠居されているが、一族を率いたこともあり、今も発言力がある。鬼の世界で知らない者はないが、ここ半世紀ほどは俗世から離れていた」
「そうでしたか……」
「珠子はどうしたい? 一族を統べたいと思っているのか。それが嫌なら、二人で英吉利へ行ってもいい。欧州は美しくしがらみがなくていい」
珠子は考えた。
どうすべきか。
今までずっと逃げ、曲や養父に守られて生きて来た。それは居心地がよく、幸せだったが、蜃気楼のように儚くもあった。洋館も焼かれてしまった。兄はなに者かに毒を盛られて苦しんでいる。助けてやらなければならない。それができるのはおそらく自分だけだ。なにより、曲を助けたかった。
「わたし――」
曲と仲山の目が彼女に集まった。
「受け身に生きるのは嫌です。お兄さまの病気もなんとしても治してあげたい。だから、逃げたくはありません」
「珠姫……」
「一族の頭などという器ではないかもしれませんが、人の命を害し、悪事を働くような人達をのさばらせてはおけません。だから英吉利には行かず、一族のためにできることがしたいと思います」
素直に思いを言えば、少し勇気が湧いてきたような気がした。
「あなたは本当に強い」
「武士の娘ですから」
華族と言ってももとは大名。武士だ。平素はのんびりな珠子であるが、芯が強いことには自信がある。ましてや養父は頑固な陸軍軍人の長瀬喜一である。とても厳しく躾けられ、臆病者にだけはなるなと言われて育った。
「甥の肇さんだって、いいように使われているだけではありませんか。あのまま育ったら、将来、きっと大変なことになります」
「その通りだ」
「わたし正照さまに会ってみたいです。会ってお知恵を拝借したいです」
曲が微笑んだ。
「あなたは俺の誇りだよ」
「恥ずかしいこと言わないでください」
「事実だ」
毎日、少しずつ、珠子は強くなり、そして曲に惹かれていっていた。夫婦というのはしっくりこないが、こんな人と恋文を交わしたいと思い始めている。つまり、恋人――しかし、「好きだ」と自分から言えるほど珠子はませてはいなかった。
言葉にはしないけれど、曲は珠子の気持ちの変化に気づいているようだった。彼はたばこを吸わないせいで口寂しそうだったが、代わりに珠子の手を握って窓の外をずっと見つめていた。
「あそこだ」
ずいぶん、山を登ったように思う。左右の林が突然開けたかと思うと、田畑が広がった。夏の田は青々として土地は豊かに見えた。田の真ん中にいた菅笠の老人が腰を上げた。馬車はゆっくりと止まる。
「正照さまだ」
老人は収穫したばかりの冬瓜を手に持っている。百歳は超えているように見えた。とても「鬼」などに見えず、好々爺のようにしわくちゃでやわらかな顔をしていた。
「お幾つですか」
珠子が曲に小声で訊ねると、彼も顎に手を当てる。
「さあ。五百ぐらいではないか。良く知らない」
「ご、五百? 冗談ですか?」
「誰も年齢を知らない。あなたの大伯父と言ったが、親族と意味だ。鬼人は長寿とはいえ、銀などで命を落とすものは少なからずいる。正照さまは希有な存在だ。だから一族の者がよく話を聞き、その意に添う」
「でもそれならなぜ一族の混乱を放置されているのですか」
「今は俗世からは身を引いているんだ。関わりを持たないようにしているんだろう? 面倒事はご免だとね。特に今は本家と分家がぶつかり合っているから余計にだ」
馬車のドアが開き、曲が降り、珠子に手を差し出した。彼女はそれを取ると地面に足を下ろす。澄んだ空気が気持ちがよかった。見渡す限りの棚田に蝉の鳴き声がし、合鴨が我が物顔で田で泳いでいる。青い空に白い雲。確かにのどかな隠れ里といった蒼く豊かな風景だった。
「誰じゃ」
「お久しぶりです。曲です」
「分家の曲曲しいの曲か」
「はい。その曲です、正照さま」
長髭の老人は渋い顔をした。会いたくなかったというのを隠す様子はなかった。
「妻の珠子が『目覚め』を迎えたのでご挨拶に参りました」
「珠子?」
老人はそれで初めて珠子の存在に気づいた様子だ。それも仕方ない、セルの着物で使用人のような格好であるのだから。目が悪いのだろう。目を細めてよく見ようと珠子に近づく。
「大伯父さま、長いことごぶさたしておりました」
「記憶を封印されたと聞いておったが? 戻ったか?」
「ところどころ思い出し始めています」
「『目覚め』を迎えるとはそういうことだ。大人になり、鬼として一人前となる。めでたい」
「はい」
「困ったことがあるようじゃな」
珠子はまっすぐに正照を見つめる。
「お力添えくださいませんか」
「うん……まあ、家に入れ。話はそれからだ」
老人は持っていた鍬(くわ)を畦に置いた。
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