第3話 鬼の隠れ里

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第3話 鬼の隠れ里

第3話 鬼の隠れ里 3  正照は平屋の茅葺きの建物に案内してくれた。屋根が大きいので、室内は暗く、開け放たれた窓のおかげで風通しがよかった。正照は自ら井戸の水を碗に汲んで、珠子たちをもてなしてくれた。冷たく甘い井戸水はとても美味く、珠子は喉が渇いていたこともあって三杯も飲む。正照はそれに満足そうな顔をした。  家の中の暗闇に慣れると、奥に仏壇があり、囲炉裏があるのが見えた。槍が長押しからのぞいている。陶淵明の「采菊東籬下 悠然見南山」という句が掛け軸になっていた。趣があり、静かで聞こえるのは自然の音だけだ。 「よいところにお住みですね」 「そうじゃろう?」  里人は正照だけではなさそうだ。田では働く人影はあるし、若い女が茄子の漬物を持って来た。正照の子孫のあかねと名乗った。 「やっかいごとを持って来たのじゃろう? 曲」 「はい」  勧められないため二人は敷かれたむしろには座らず、床の上で正座し背筋を伸ばした。 「言ってみよ」  正照はあぐらを汲むと縁台で煙管を嗜みながら、曲の話を促した。 「長い話なのです」  曲はまずそう前置きし、 「公春さまは明らかに銀の中毒で明日をも知れない様子です」 「当主がなんたることだ。しかも銀とは……」  正照は不甲斐ないと憤慨した様子を見せつつ、公春とは知らない仲ではないのだろう、案じ顔で煙管を吹かせた。曲が続ける。 「世子の肇には力がありますが、いかんせん、母親が人間で力の制御すらできないありさまで、私たちに敵意を見せて攻撃したりします」  正照は吐息する。そういう例は鬼の子供によくある反抗期のようだ。 「それを公芳が担ぎ上げて、自分が実権を握ろうとしているのだな?」 「はい。そのつもりかと。しかも、肇は公春さまの子ではなく、公芳さまの御子だと母親の松風が言っておりました」 「なんと!」  さすがの正照もそれには驚いた様子だ。 「それをネタに松風はお千という妹分ともに公芳さまを脅そうとしましたが、お千は殺され、松風も命を狙われています。私の邸も焼かれ、公芳さまは真珠を作れる珠子を得ようと必死の様子。逃げるしかなく、今はこのありさまです」  すべてをゆっくりと順序立てて曲が説明すると、正照は腕を組んでしばし黙った。 「公芳はおそらく、そなたと珠姫との間で陰陽が調和することを恐れているのだろう」 「おっしゃる通りかと」 「陰陽が調和すれば、だれもそなたら二人には叶わぬ。先代の侯爵は普通の幸せをと思って花崎家に珠子を嫁にやろうと考えていたが、珠姫は幼い頃からまれに見る陽気の強い女子だった。陰気が異常に強い禍つ子の曲、そなたが現れ、気が変わったのは、一族のことを思ってのことだ」  珠子は花崎と自分が結婚していたかもという事実に驚いた。が、曲と老人の話の論点はそこではない。正照は、珠子の驚きなどに気づきもせずに続けた。 「二人で力を合わせれば一族のものを説得することは不可能ではないじゃろう。公春が今日をも分からぬ状態なら、次は珠子とお前が本家を守るのが筋じゃ。公芳など出る幕はない」 「お力添えいただけませんか。東亰にともに来て皆を説得したいのです」  正照老人は煙管を灰吹きに叩いた。 「残念じゃが、わしはすでに隠居の身。この里から出るつもりはない」 「どうかそこをなんとか」 「くどいぞ」  曲は断られても粘っていた。話は長くなりそうだった。それで茶を運んで来たあかねが気を利かせたのだろう。「少し庭でもご覧になりませんか」と珠子を誘って外に連れ出してくれた。縁側の沓脱石にあった下駄を借りて外に出ると鶏が放し飼いになっている。 「この里はいい風が吹きますね」  麓から吹き上げる田園の風のせいで、ここの空気は澄み、涼しかった。桃源郷からどうして地上へ戻りたいと思うだろうか。正照が断るのはもっともな話だ。鶏に餌をやりながら珠子はそんな風に考えた。 「お姫さま」  樫の木の陰から十くらいの少年が顔を出した。丈の短い着物を着、その背には乳飲み子が括り付けられている。珠子は手招きをした。 「子守をしているの? えらいわね」 「妹だよ」  夜吉という名の少年の頭には二つの小さな角がある。珠子は肇がどうだったかと思い出そうとして諦めた。肇は髪が長かったし、廊下の端にいてよく見えなかった。 「角が可愛いわ」 「まだ子供だから隠せないんだ」  珠子は自分の頭に触れてみた。角は出ていないが、硬いかさぶたが頭にできている。もしかしたら自分にもあんな風に角があった時があるのかもしれない。自分もまた鬼、いや、貴人なのだ。珠子は微笑をしたまま事実を目の当たりにして困惑した。 「一緒に遊びましょう」  少年はこくこくと頷くと、円を木の棒で描き、小石を珠子に握らせた。 「真ん中に近い方に投げたら勝ちだ」 「子供の頃やったことがある。得意なの」  珠子はにこりと微笑むと、足元に線を引いてそこから石を投げるが、少年のように上手くいかない。なにか秘密があるような気がするほど、夜吉の石は上手い具合に的の真ん中にピタリと止まる。 「ねぇ、どうやったらそんなに上手くできるの? わたしにも教えて」  珠子が夜吉に訊ねると、少年は得意げに人差し指で鼻をこすった。 「ちょっと力を使えば簡単さ」 「うん? 力?」 「手のひらに力を込めるんだ。それで投げれば好きな方向に石が動くんだ」  夜吉は珠子の手のひらを握った。それはかつて曲が真珠を作るのを手伝ってくれたのと同じだ。念を手のひらに込め、熱を発して熱くなりすぎぬうちに手を離せばいい。 珠子は石を自在に動かせるようになった。慣れてしまえば、紙風船をずっと宙にあげていられるようにもなった。 「姫さまの気は陽気だね。陽気の人は長生きしないそうだけど、空気が穢れなくていいね」 「そうなの?」 「じいさまは、あの大きな石を動かせるんだ。すごいだろう?」 「どの石?」 「あれ」  大人の男が二人腕を広げても回りきらないほどの大きな石が門の脇にあった。  珠子はそれを見て、自分にもできると思った。小石のように重さを感じなければいいのだと夜吉が教えてくれたので、片手を翳してみた。石がぐらつき、どしりとしたものが手に掛かったが、珠子は目を瞑って無になった。重さを感じまいと念じて、さらに手を上にあげる。 「持ち上がったぞ!」  夜吉が手を叩いて喜んだ。  石は半分、地面に隠れていたのだが、それがゆっくりと蒼天へと上がっていく。紙風船より軽かった。 「見て見て!」  夜吉が嬉々と声を上げ、暗い家の中で話し合っていた男たちが、縁台に出てきた。 「珠姫!」  曲が叫ぶと、彼の手からビロードの陰がうねりながら飛んできて、岩を包み込んだ。墨が水に広がるようにゆっくりとそれは岩を地面に下ろす。曲は裸足のまま庭に降りてきて、珠子を抱きしめた。 「目覚めたばかりなのに無理をしてはいけないだろ……」  岩はゆっくりと地面に下り、そっと重力を思い出したように転んだ。 「遊んでいただけ」 「具合を悪くするといけない」  曲は珠子の額や手足を確認する。縁台からそれを見ていた正照老人が顎鬚を撫でた。 「珠姫は黒木家本家の力を強く受け継いでいる。目覚めを迎えたばかりでこれほどの力を使えるものはそういない。修行次第では人の記憶を操り、意のままに動かすことも可能だろう。公芳らが拐かしても欲しいと思う理由は分かる」 「正照さま、どうか珠子を助けるためにご尽力ください」 「うむ」  正照老人は更に関わりたくない様子になった。 「もう帰った方がよい」 「正照さま……」 「日が暮れると道が分からなくなるでな」  珠子も曲もがっかりとした。それでもこれ以上、無理を言うのもどうか。礼を言って馬車に向かう。 「こんな時でなければ、歓迎する。また来るといい。美味いものを食わしてやろう」 「はい。ありがとうございます」  珠子は腰を曲げて別れを告げ、老人を見た。彼は珠子に皺の多い顔で微笑んだ。 「東亰には行かぬが、他の一族と連絡はとってみよう。あまり人付き合いしない者もいるでな。わしが話した方がよかろう」 「本当ですか⁉」  曲が喜色を見せた。 「感謝いたします、正照さま」  曲が頭を下げ、珠子も倣う。老人は珠子にだけ頷き、肩を叩いた。 「これを持って行け」  あかねが箱を持って現れた。  この里には似合わぬ舶来の箱だ。金の留め具を外してあければ――。 「拳銃」 「亜米利加製だ」  珠子は養父は、帝国軍人だった長瀬喜一が銃を携帯し、珠子にも冬に雪で覆われた信濃にある観測所勤務になった時に手ほどきを受けたので知っているが、フリントロック式の回転式拳銃だ。この隠れ里の老人の所有物にしてはずいぶんと物騒なものである。 「銃は大したことがない。これを持って行け。必ず手袋をはめて扱うのだぞ」  手渡されたもう一つの漆の箱からは金物の音がした。曲が眉を顰めた。 「銀の弾ですか」 「そうじゃ。同族殺しは罪ゆえ、禁じ手だが、必要になるときは必ず来ると思って数年前に作らせた」 「ご深慮、いたみいります」 「うむ。気をつけてな」 「皆さまもお元気で」  珠子と曲は馬車に乗り込んだ。そして目指すは甲州にあるという山荘。富士山が見える湖の側なのだという。珠子は窓を開け、夏の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
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