第5話 蚊帳

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第5話 蚊帳

第5話 蚊帳 5   覆面の男は撃たれて床に倒れ込んだ。  鬼ならば、普通の拳銃の弾など大したことはない。素手で取り除き、傷口もすぐに塞がるが、男は呻いて動けないでいた。もう一人の仲間が、助け起こそうとして、珠子がもう「パンパン!」と続けざまに二発撃った。倒れた二人目の男。畳が血の海になる。あの銀の弾が入った拳銃を使ったのだ。 「珠姫!」  血を吐きながら、彼女を案じて駆け寄ると、珠子は呼吸を荒くして動揺に耐えかねていた。人を撃ったのは初めてだろう。 「助かった。珠子。銃を渡してくれ」  珠子は幼子のように首を横に振った。 「もう大丈夫だ。仲山が外を見に行った」  彼女はあたりを見回すと、お紅に拳銃を向ける。 「御手水に出ようとしたら、怪しい男たちが裏の戸から入ってくるのが見えました」  珠子の手は震えていた。 「管理人のおじいさんが裏戸から招き入れたのです」  曲はお紅と太吉の方を見た。青ざめた顔で太吉は包丁を握っている。長年、信用して使ってきた相手に刃物を突きつけられるとは、曲は腹立たしい。銀を盛られていなければ、この手で首を絞めてやるものを――。  しかし、今は老人と争っている場合ではない。  他にも追っ手がいるかもしれない。珠子を安全なところに逃がさなければならないし、銀を盛られて自分も畳に這う体たらくだ。 「くそっ」  曲は心の中で悪態をつく。 「大丈夫ですか」  守ってやりたいと思っている珠子に結局、守られている。自嘲するしかない。 「太吉夫婦は逃がしてやってくれ。どうせ脅されたかなにかだ」 「でも……」 「それより、桶をくれ……」  嘔吐く必要があった。  珠子が拳銃を曲に預けると、太吉夫妻も包丁を投げ捨てて勝手口から逃げていった。 珠子が桶を持ってきたのは、そのすぐ後で、曲は食べたものを蛆と一緒に吐き出した。珠子から病をもらい受けたのは、今、考えると幸運だった。蛆が胃にいなければ、きっと曲は銀の毒に犯された。 「見苦しいからあちらに行っていてくれ」 「なにをいうのですか」  珠子が背中を撫でた。 「じゃ、井戸の冷たい水を汲んできてくれないか」 「はい……でも……」 「毒はほとんど吐いた」  珠子は立ち上がり、しばらく曲の背を見ていたけれど、踵を返して勝手へと出て行った。入れ違いに仲山が現れ、桶を新しいものに替える。 「他に不審者は?」 「おりません」  仲山が座敷に転がったままだった死体を引きずって窓から庭に落とした。 「珠子さまが銃を使えるとは驚きです」 「驚きではないよ。長瀬は拳銃の名手で、陸軍でも一、二の腕前だった。身を守るために珠子に手ほどきをしても不思議はない。人を撃ったのは初めてだろうが……」 「なるほど、そうでしたね」  にこやかな笑みをする仲山は右手を挙げた。  ぼっと音がしたかと思うと屋根まで紫に炎が昇った。死体はその一瞬の火で燃え尽きる。残ったのは、地面に残る黒い煤だけだ。珠子に死体を見せたくなかったから、これでよかった。仲山が手袋をした手で銀の弾を回収する。 「曲さま」  そこに珠子が水を持って来てくれた。死体がないのに気づくと仲山を見たが、仲山は首をすくめて見せただけだ。曲は口を手ぬぐいで拭きながら、大きな椀の水を一気に飲んだ。  曲は言った。 「死体なら心配ない。仲山が始末した」  珠子は少し悲しそうに頷き、頭を仲山に下げる。仲山は座敷に行くと、二人の荷物を手早くまとめ、例の拳銃の箱を抱えて戻ってきた。 「珠姫さま、ここにいるのは危険かと。山を登りましょう。屋敷の裏手に山小屋があります。掘っ立て小屋ではございますが、危険なここの座敷よりはましでしょう」 「わたしは平気ですが、曲さまは立てるのですか」  咳き込んで見れば血痰だ。手ぬぐいが赤く染まっている。  ――完全に毒を中和できてはいないようだな……。 「心配ない」  曲は仲山の手を借りて立ち上がった。珠子は拳銃が入れてあった木箱を抱きしめるように持った。三人は裏山を一言も口をきかずに登り始め、道ともいえぬ道を夏の深い草をかき分けて行けば、息が上がった。珠子は特に草履で山登りなど大変だろう。しばらくすると脚を引きずり始める。 「足は痛くないか」 「大丈夫です。ただ歩きづらいだけで。なんともありません」  珠子は嘘が下手だ。でも、その嘘に今は助けられる。曲は仲山の肩にいて、どうしてやることもできないから。  そうして半刻ほど以上経った時にようやく小さな小屋を見つけた。煙突があることから土間と煮炊きできる竈(へっつい)があるのだろう。  鍵を石で壊して中に入ると、土間の向こうに南側に四畳ぶんほどの畳敷きの小上がりがあり、物置として使う予定だったのだろう。北側の日のあまり当たらない三畳ほどの板の間があった。  ただまだ新しい木材の匂いがした。掃除の必要はなさそうで、必要なものはしっかりと用意されていた。大瓶に水があり、米櫃も一杯だ。あと仲山が持って来た食糧があれば三日は過ごせる。曲は押し入れを開けてみた。せんべい布団と蚊帳他、生活の小道具が詰め込まれており、非常時のために老夫婦にも知らせずに密かにここを作らせておいた自分を曲は褒めてやらなければならなかった。 「私は薪を集めてきます。たしか、裏に薪小屋があるはずですから」  日はもう暮れそうだった。  仲山が去った方角を見ていると、働き者の珠子が簡単に中を片付け、曲が横になるよう、押し入れから布団を出してきて、簡単に埃を外で払ってから敷いてくれた。 「夕食はどうしますか」 「火を使うと追っ手に気づかれる可能性がある。日が暮れてからにしよう」 「そうですね」  珠子が落ちて行く陽を見つめた。人を撃ったという罪悪感を隠してなんでもない日常のような顔を作っている。曲は、彼女を後ろから抱きしめた。 「苦労させてすまない」 「苦労なんてしていません」 「これを苦労と言わずになにを苦労と言うんだ?」  珠子は苦笑して、振り返った。顔と顔が接近して二人は慌てて離れた。 「俺は一回りしてくる」 「お台所のことをやっておきます」 「珠姫が――」 「――する必要ないとおっしゃると思いますが、今、わたしが一番得意なのがご飯を炊くことですし、体を動かしていると、いろいろ忘れてしまいます。だから止めろとはおっしゃらないで」  曲は頷いた。それならそれでいい。人を撃ったことを忘れる必要が彼女にはある。 「お休みになってください、曲さま」  珠子が微笑む。心配するなとその笑みには書いてあった。だから、曲もそれ以上なにも言わなかった。  窓から差し込む夕日は珠子の背を最後の一差し照らした後で沈んでいった。曲が、人ならざる者の瞳で小屋外の辺りを見渡せば、人の気配どころか、獣の姿もなかった。鬼の、それも上級の存在に恐れを抱き、逃げてしまったのだろう。鋭い嗅覚で探っても異変はない。  ――しっかりしなければ……。  苦しさから背で息をする曲は木の下の石に座り、痛みに耐えた。珠子の前では笑っていなければならないから――。  すると、向こうから仲山が薪を背負ってきた。こちらには気づかずに小屋に入り、竈に焼べられたのか燃える臭いがする。米が炊ける匂いは安らぎの香りだ。曲は子供の頃はろくに食べさせてもらえなかった。各家々から夕暮れ時になると立ち上る煙と御飯の蒸す匂い、そして家族仲良く「初めチョロチョロ中パッパ」と歌う声は羨ましいほど豊かに聞こえた。  ――俺にしてはずいぶん感傷的だな。  それも仕方がない。今、珠子とここにあるのは、曲がずっと欲していた家族の姿なのだから。それでも吐き気をもよおすとすぐに小屋から出た。  ――まずい。  曲は草むらに入った。  誰にも知られずに吐きたかった。  銀の毒は完全に抜けていない。魚の骨が一本、喉につまったかのように、胃の一点を痛め続ける。珠子が作った夕食は食べたいが、腹に入れるのは無理だろう。小屋に戻ると小屋にいる珠子に声をかけた。 「少し休むから、仲山と食べてくれ」 「はい」  珠子の顔に少し煤がついていて愛らしかった。こういう生活も悪くないと曲は思う。勤め人として働き、夜に帰れば珠子が夕食を作って待っていてくれる。普通で穏やかな日々を想像すると平凡で、幸せに満ちていると思う。  しかし、現実は珠子と曲は命を狙われ、逃げ回っている。ここがだめであるのなら、次はどこに逃げたらいいのだろうか。駅馬車で南下し、富士川を下って駿河の国へ出るべきなのか。京に行けば、分家である信岡黒木家の人間は多くいる。助けてくれないはずはない。 「ゆっくり考えよう。それが一番だ……」  胃は痛んだが、疲れの方が勝って眠りについた。白米の炊けるいい匂いがすれば、心も穏やかになるから不思議だった。  そしてどれほど休んだのだろうか。  気づけば虫の音で目が覚めた。横には握り飯と真珠を潰した粉の薬が盆に載せられて置いてあり、その向こうに蚊帳が吊ってあった。   銀色の月光が注ぐ蚊帳の中で、珠子がこちらに背を向け着物を脱いでいた。襦袢は夏もので透けていて、太ももも腕も見えた。桃色の伊達締めを解くと、彼女本来の体の線がはっきりと見える。しなやかな腰に華奢な手足。胸は――こちらを向いてくれないので分からなくてもどかしい。  ――珠姫……。  珠子がそっと布団に横たえた。  布団は厚い冬物なので、彼女はそれを掛けずに目を瞑る。曲は目をきつく閉じた。銀の痛みと胸の鼓動、愛しい妻の側に行きたいという想いが理性をかき混ぜるも、自分の欲望のまま大切な人を扱ってはならないと自分に言い聞かせる。  しかし、すやすやと息をする彼女の呼吸の音を聞くと、曲は妻の側に行きたいのをどうしようもなくなった。「ううん」と言葉にならない寝言をいう珠子の声に曲は寝ているふりをすることもできなくなった。 「珠姫」  呼びかけると、彼女はうっすらと目を開けた。 「曲さま?」  少し寝ぼけているのか、蚊帳の下から手が差し伸べられた。  冷たい指先が、彼の腕をかすめ、息絶えたように止まる。 「珠姫」  曲は蚊帳を潜った。
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