第2話 謎の紳士

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第2話 謎の紳士

2 「珠子さま、また明日」 「ごきげんよう」 「ごきげんよう」  夕闇がそこまで来ており、家々の夕餉の煙が上っている。人々は忙しく通りを歩み、豆腐屋のラッパの音が悲しげに鳴いていて、浅草十二階は夕日に照らされていた。  ――やだ。もうこんな時間? 早く家に帰って夕食の支度をしないと! 「ごきげんよう」  長瀬珠子は早々に級友に別れを告げて、親類からもらったお気に入りの手提げを揺らして家路へと急ごうとしていた。女学校は裕福な商家の娘達が通う下町の学校で、そんな彼女たちからさえ羨まれたそれは、なかなか見ない京友禅が使われており、思わず抱きしめたくなるほど可愛かった。 「珠子さん、お迎えに参りました」  背後から人影が現れ、誰かに肩を叩かれ、はっとする。振り返れば軍服姿の葉山中尉だった。日焼けした丸顔の人だ。制服を脱いだら軍人には見えないような人の良さそうな人である。 「葉山さまが来て下さったのですか?」 「ええ。非番ですから、散歩がてらに」  葉山は、少佐である父の部下で、長瀬家の離れに住んでいる。面倒見のいい父は、地方から出てきた部下を家に住まわせており、葉山の他にももう一人軍人が間借りしていて、遅くなると誰かしら迎えに来てくれるのが常だった。父娘だけの二人だけの寂しい家はだからいつも賑やかだ。  しかし、その顔ぶれはしばしば転勤などで変わる。葉山とはまだ一月ほどの付き合いだ。人見知りする珠子が小さく会釈をすると、相手は微笑んだ。心配性でいつも自ら送り迎えしたがる父は夜勤で来られないのだろう。  葉山中尉は、好青年だと近所の評判で、将来有望であるので、女友達たちは彼を見ると浮かれたが、殿方が苦手な珠子は、硬い笑顔を返すだけだった。 「荷物をお持ちしましょうか」 「大丈夫です。重いものではありませんから」  珠子の手から風呂敷を取り上げようとした葉山の手からそっと逃げた。家は殿方だらけだがどうも慣れない。 「では、行きましょうか。どこか寄るところはありませんか」 「では……お味噌屋さんに……お味噌を切らしていて……」  二人の間にはほとんど会話はない。珠子がはにかんで話したがらないのと、相手が父を恐れて口を開かないからだ。珠子は黙って葉山の後ろを歩き始めた。誰かに見つめられている気がしてあたりを見回すも、誰もいない。ただ、時々、見かける黒い馬車を見つけて、どこの華族さまが、こんな下町の女学校に用があるのだろうかと不思議に思う。  そして沙翁(シェイクスピア)の本が借りられたかもしれないのに図書室に寄ってきなかったことを悔やんだ。今、夢中になっている本は誰かからの寄贈で何冊もあり、順番を待つ必要なく読めたはずだ。でもあまり遅くなると家族が心配するし、通いの手伝いのおばあさんが米は炊いてくれているだろうが、おかずを作るのは珠子の仕事だ。夕方はぼやぼやしていられない。  そんなことを考えていると、制服姿の帝大生が横を走りすぎ、ふところになにかを入れていったが、気づかぬふりをした。眼鏡をしたどこにでもいる女学生の自分に艶書が贈られるとは思っていない。きっと悪ふざけであろうから、あとで捨てればいい、そう思った時だった――。 「危ない!」  ぼうっとしていたのがいけなかった。後ろを振り返った葉山がそう叫んだかと思うと、珠子を抱きすくめた。「あっ」と声を漏らした瞬間、ならず者が日本刀を斜めに葉山の背に斬りつけた。「うぐっ」と痛みを堪える葉山の声がした。珠子を庇って斬られたのだ。 「きゃあ!」  珠子は叫んだが、周りにいるのは帰宅途中の女学生ばかり。ただおろおろと立ち尽くすばかりで助けを呼びに行く機転もない。  親戚からもらったばかりの手提げが、泥濘に落ちる。しかし拾う間もなく髪を引っ張られ、背中から羽交い締めにされれば身動きが取れない。さらにどこに隠れていたのだろうか。袢纏に地下足袋という車夫姿の男に無理矢理人力車に乗せられそうになる。珠子は暴れた。 「お逃げください!」  葉山はそう叫ぶと怪我を押して軍剣を抜いたが、相手はどうやら全部で四人だ。多勢に無勢。それでも葉山は珠子を背中に庇い、じりじりと後退した。しかし陰に隠れていた五人目の男に下腹を匕首(あいくち)で刺された。彼女は、自分を車に乗せようとしていた男を蹴って、すぐに葉山に駆け寄った。 「葉山さん、大丈夫ですか!」 「お逃げください! 珠子さん!」  珠子は怖くてならなかった。  葉山の血で手のひらにぐっしょりと濡れ、ならず者たちは、再び珠子の衿を掴むと抵抗する珠子を容赦なく殴って引きずった。  それでも彼女は諦めなかった。  男の腕を噛み、足を編上靴の踵で踏む。 「助けて!」  大きな声で叫んだ。 「助けて!」  女学校の守衛がその声で気づいてくれることを祈るばかりだ。 「このアマ! 黙れ!」  男が平手で珠子の顔を打ったので、その勢いで地面に強かに打ち付けられた。丸眼鏡が飛んで視界に靄がかかったようにかすれてしまった。  ――だれか、助けて……。  その時だった。黒の三つ揃いを着た若い青年が傍観者たちで溢れる人混みをぬって走って来たかと思うと、珠子に襲いかかろうとしていたならず者を長い脚で蹴り飛ばし、その首筋に切っ先を止めた。 「全員動くな。少しでも動けば躊躇なく殺す」  馬車から遅れてもう一人、背広を着た口髭の男が現れ拳銃を向けた。すると、ならず者たちは草履を片方、忘れていったのも気づかぬ様子で一目散に四方へと逃げて行った。残ったのは無人の人力車だけ。  珠子はただ唖然とそれを倒れたまま見ていた。自分の息が荒いのをどうすることもできずに助けてくれた人を見上げた。 「大丈夫か。怪我はないか」  三つ揃いの青年が、心底案じた顔で珠子に駆け寄って膝をついて尋ねる。珠子は彼の顔が裸眼ではよく見えず、さまよわせた手を伸ばして宙で止めた。  ――もっと近くで見たい。助けてくれた人を……。 「手をすりむいている」  鼻と鼻がくっつくほどの近さになってようやく珠子の瞳は青年の顔を映した。そして、なぜか彼を知っているような気がした。こんな立派な背広を着て、馬車に乗るような人は別世界の華族さまだと相場は決まっている。しかも、さらさらの髪にしっかりした肩幅、白く瓜実の輪郭、二重の切り長の目に上品な唇は忘れられないはずのものなのに。珠子は、青年の顔をもっとよく見たくて近視の眼をさらに近づけた。 「ひどく殴られているな……他に痛いところは? すりむいたり、くじいたりしているところはないか」  珠子はあちこち痛かったが、首を横に振りながら、差し出された手を取った。 「大丈夫です……なんとか……」 「とても大丈夫に見えない」  珠子は半身を起き上がらせた。そして急に恐ろしくなって手が震えた。どうしたらいいのか分からない。もう少しで連れ去られるところだった。葉山はどうなったのだろうか。無事なのだろうか。珠子はあたりを見回した。すると、なくなったと思っていた眼鏡が手に当たった。慌ててかけるが、片方のレンズが割れていて右目しか見ない。 「どうした?」 「葉山さんは? あの、軍人さんです……怪我をしているはずなんです。刺されて……わたしを庇って……血がすっごくって……どうしたら……」  おろおろと辺りを見回しながら葉山を捜した。  それは、案じて言ったことなのに、珠子の手を取っていた青年の手はぎゅっときつくなった。青年は真剣な眼差しで珠子を見たかと思うと、珠子の殴られて腫れた頬を冷たい人差し指でなぞってから、意を決した口調で言った。 「連れ帰る!」  それは独り言のようだったが、どうやら後ろにいた口髭の部下に言ったもののようだ。少し皺のよった背広を着た口髭の男は、葉山を板戸に乗せて医者に診せるように命じると、巡査が事情を聞きに現れたのも無視して青年に答えた。 「長瀬とご相談してからの方がよろしいかと存じます」 「必要ない。珠姫が怪我をしている。手当をしなければ」 「長瀬の家はすぐそこで――」 「馬車を持ってこい。ここはもう危険だ。そうだろう?」 「は、はい。確かにその通りです、子爵」  珠子は、どこかで頭を打ったのだろうか。それとも緊張が解けたせいだろうか。もめている男たちの言葉はほとんど耳を素通りし、気が遠くなっていく。全身の力が抜けて目の前が真っ暗となり、額を抑えるも、体から力が抜けた。 「珠姫!」  男の声が遠くに響き、誰かが珠子の肩を揺すぶったが、意識を手放すほかなかった。 目が覚めた時、珠子が初めて見たのは漆喰の白い天井だった。陶器のように真っ白なシーリングメダリオンに飾られたシャンデリアの鈍い光が壁に反射して不思議な色をしていた。上げ下げ窓の向こうには、しらじらと夜が明けようとする青白い光が見えた。寝ていたのは慣れた畳の上ではなく、真鍮の寝台(ベッド)で、洋だんすの上には紫陽花が活けられている。刻みよく音がするのは、置き時計の振り子のせいだろう。ブロンズ製で美しい曲線を時計の文字盤の周りに描いていた。どこからかいい匂いがするのは、鏡の前に並べられた香水のせいだろうか。中には高価な仏蘭西の理ガード社のものもある。紺色のラベルに鳥の絵は東亰の女性たちの憧れの品だ。  珠子はゆっくりと起き上がった。するといつの間にひねったのか、右手首に激痛が走り、腕を庇う。そして立ち上がろうとして頭痛に気づき、思わず珠子は米神を押さえた。  ――ここはどこ?  眼鏡がないと大きなものしか見えない。  手探りで、寝台横のテーブルに眼鏡が畳まれてあったのを見つけるが、やはり片側が割れていて、半分見えない。とはいえ、ないよりましだ。  着物はどこにも見当たらない。あるのは、着せられている白い絹の襦袢だけで、靴も履かずに仏蘭西窓(フレンチドア)のガラスをこすり、ここがどこであるか窺ったが西の空はまだ暗かった。テラスに出ると、そのまま外階段を裸足で下りてみた。  ――帰らないと。  ここが一体どこであるのかさっぱり分からない。少なくてとも珠子がいる場所でない。とても裕福な人の御殿で、場違いな気がする。それでも誰かいるのではと、庭に降り、辺りを見回し人を捜すと珠子は瞠目した。  東の空は朝日を昇らせようと白く滲んでいて美しい朝の光景だった。が、驚いたのはそのせいばかりではない。  そこは広い森の真ん中、いや数千坪もある邸の庭の中だったからだ。母屋とおぼしき日本家屋が南側にあり、東側には巨大な池が横たわる。白亜のこの洋館の前には噴水があり飛沫が月の光で白く輝いて、ポプラの森に影を落としていた。  珠子は裸足であるのもかまわずに歩き出す。すると、朝霧がだんだんと晴れ始め、蓮が一面に咲く池のほとり一人の男が立っているのが見えた。 「あれはたしか……わたしを助けてくれた人?」  小さな明かりと煙が見えるからたばこを呑んでいるのだろう。珠子は惹きつけられるようにそちらに足を向けた。灰色の麻のスーツには皺もない。繊細で、きちんとした性格でそんな人を満足させてくれる使用人を雇うだけの財力があるのが察せられる。顔は割れた眼鏡のせいでよく見えないが、背があれほど高い人は珍しい。やはり、昨日のあの人だ。 「あの……」  礼を言わなければと思った珠子は、思い切って声を掛けてみた。 「珠姫?」  彼は珠子のあわれもない姿に驚いたように目を広げ。吸っていたたばこを背に隠して捨てた。  そしてすぐに彼はたばこの臭いのする背広を珠子の背に被せた。 「目が覚めたか」 「朝が、その……早いのですね」  背広は男のぬくもりを含んで温かだった。それが気まずさを珠子の中に産み、言葉を探したが、結局なんとも間の抜けた言葉しか出てこなかった。相手は微笑んだ。 「あなたが心配で寝なかったんだ。珠姫、具合はどうか」  昨日痛めた手首はまだ痛むが、頭痛はもうしなかった。しかし、珠姫とはなんだろう? お大名のご令嬢のような呼び方だ。 「わたし……」  青年は珠子が裸足であることに気づくと自分の靴を脱いで彼女の足に跪いて入れた。珠子より四つ、五つ、年上の二十と一、二歳か。珠子はおずおずと頭を下げた。 「助けてくださってありがとうございます」 「礼には及ばない。あなたを危険にさらしたのは結局は俺だ」  珠子は首を傾げる。 「俺がたびたび女学校の前に行ったから居場所を嗅ぎつけられたのだろう」  疑問がわく。誰に? でもその前に礼儀としてこちらから名乗らなければならなかった。 「私は長瀬珠子、陸軍少佐、長瀬喜一(ながせきいち)の娘です。あの、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。命の恩人のお名前を教えください」  彼の魅惑的な唇が動いた。
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