第一章1 もし――

1/1
76人が本棚に入れています
本棚に追加
/26ページ

第一章1 もし――

「帝都ニテ君ヲ愛ス」 序 「これはこれは、こんな夜更けになんの御用でございましょ」  月が傾く頃、深川の長屋で、元芸者のお千の元に洋装の一人の紳士が尋ねて来た。六十前後か。既に夜、四つ時(夜十時)を過ぎている。お千は慌てて袢纏を襦袢の上に羽織って愛想のいい顔を作る。女の盛りはとうに過ぎたが、時折、男が尋ねてくることはままあることだ。ぴたりと体にあった洋装は吊しのものではないのは明らかであるし、蝋燭の明かりに布地の光沢が照らされているだけでも上質なのが分かる。  お千は行灯に火を灯すと、なかなか敷居を跨がずに戸口にいる男に声をかけた。 「どうなすったのですか。お上がりくださいませ」 「ちと、性急に尋ねたいことがあってな」  小上がりの部屋は小ぎれいでお千は座布団をひっくり返して席を用意し、茶を淹れたものかと迷った。男は長居するつもりはないのだろう、帽子も脱がず、上がり框(かまち)に腰掛けた。 「それで聞きたいこととは何でございましょう」 「松風のことだ」 「お姐さんのことで?」  お千は身構え、笑顔を引きつらせる。会ったことはないが、男の素性に心当たりがあったのだ。厳めしいひげ面で卑屈そうな顔をしていると松風から聞いたことがある。目の前の男はまさにそんな面構えだ。  ――どうしたら……。  なにしろ松風が危ない橋を渡っているのは良く知っている。自分もそれに一枚、いや、二枚も三枚も絡んでいる。脅しにきたのだろうかとお千は不安になった 「聞いたところによると、お前も秘密を知っているという」 「なんのことでございましょうか……」 「とぼけるな」 「とぼけるなど……」  男はポケットから紐を取り出した。瞬きしたお千だったが、男の目に殺気を感じると這うように土間の方に逃げた。包丁を取ろうと思ったのだ。が、たどり着く前に革靴のまま男は部屋に上がって後ろからお千の首を絞めた。 「誰にも知られてはならぬのだ!」 「お……お許しを……ど、どうか……誰にも申しません……」  男の手にぐっと力が入って、乱れる裾から白い脚が見えるのも構わずに、お千は抗った。畳を両手の爪で掻き逃げようとするも男の力には負ける。 「うう……」  手を紐にかけ、喉を掻きむしったが、男は手を緩めない。明確な殺意を背に感じて、お千は隠し持っていた銀の針を衿から抜くと男の手を刺した。しかし、刺せたのは一瞬のこと――。 「つまらぬことに首を突っ込んだお前が悪いのだ!」  お千はそこで息絶えた。   1  俺は「もし――」をよく空想する。  もし、俺が彼女に声をかけるとしたら、なんと言おうか。  もし、俺が誰かと問われたら、なんと答えよう。  もし、彼女が笑顔を向けてくれたら、俺はどうしたらいいのだろうか。  帝都東亰――鳴示七年。  一台の闇色の馬車が女子師範学校の門の脇に停まった。持ち主は旧信岡藩当主、黒木曲(まがる)子爵。銀行家としても知られている洋行帰りの二十二歳だ。彼は光沢のある黒い髪を斜めにして、憂いの瞳で少女たちをガラス越しに肘をついて眺めていた。  窓の外には凌雲閣が見える。眺望用の高層建築物で十二階建てであることから「浅草十二階」などとも呼ばれる、文明開化の象徴のような建物であるが、実際はその周辺の治安は悪く、曲はいつも待ち人のことを案じていた。  ――遅いな……。  彼女は罰で掃除をしているのだろうか、なかなか出てこない。彼は、瑞西(スイス)製の懐中時計で時を確認すると、読みかけの本に目を落とす。最近、彼女が好んでいるという沙翁(シェイクスピア)だ。彼女が興味あるものは、一通り目を通しておきたかった。もし――彼女と話すことがあったら、なにを話せばいいか分かるから。 「出てこられました」  秘書の山仲の声で曲の瞳が上がった。身を起こし、彼女を見た。小柄で十七にしては童顔の美少女だ。丸い輪郭に優し気な双眸をしているが、その美しさは丸眼鏡に上手く隠されていた。豊かな髪をマーガレットにして赤いビロードのリボンで留め、磨かれた黒い編上靴(ブーツ)を楽しげに門を越えた。守衛に会釈を忘れないのは人柄だろう。  ――珠姫。  珠姫は色白の丸顔をほころばせると、こちらを見て笑った。赤い頬と艶やかな唇。優しい印象の緩やかな半円を描いた眉。大きな瞳は瑞々しい。そして袖を左手で押さえながら、手を振ってこちらに駆けて来る。早咲きの菫のように可憐だ。海老茶の袴に矢絣の海老茶式部姿がよく似合う女学生――。  曲の心臓が音を立てて高鳴り、思わずステッキを持つ手を強ばらせた。  しかし――彼女は馬車の中にいる曲に気づかずにその横を素通りし、彼女を待っていた友達の輪に加わってしまう。落胆と安堵が曲を襲うが、そしてまた「もし」の仮定が彼を問いかける。  ――もし、あの人が僕を思い出してくれたらどうなるのだろう?  ――もし俺の名前を口にしたらどうなるんだろう。  車窓に映った不機嫌な自分の顔がガラスに歪んで見えた。彼女のことを考えるといつもこんな顔になる。腹立たしくなって不機嫌な顔だ。 「出してくれ」  三十代の落ち着き払った秘書の仲山が、口髭のある顔をこちらに向けた。そこには珍しく笑みがあった。 「ご覧になりましたか、先日お贈りした手提げを珠姫さまはお持ちでした」  曲は振り返った。  紅の手提げは、彼女が好きそうだとなんとなく銀座で求め、彼女の遠縁の伯母からだと偽って贈ったものだった。友達に自慢している様子だから、気に入ったのだろう。曲の頬が少し緩む。  しかし、見れば曲の代わりに陸軍将校とおぼしき若い男が彼女の肩を後ろから叩いて声を掛けている。曲に向けられるはずの笑みは、その男に奪われた。 「あれは新しい珠姫の護衛か」 「長瀬家の離れに間借りしていることにして、密かに珠姫さまを護衛させております。朝夕の通学のお供や家の周辺の警戒に当たらせております」 「うむ」 「今の所、なにも問題ありません」  なかなかの好青年で、地方出身なのだろう。垢抜けない素朴なソバカス顔の男だ。軍人にしては背が高くないが、体つきはしっかりしている。護衛としては申し分ない。  だが曲は気に入らなかった。護衛の珠子に向ける笑みは男が愛しい女に向けるものだ。そう確信するのは、曲も同じ気持ちを抱いているからだった。疑念を抱いて顎に手を当て考える。信用ならないと。  仲山が慌てて言った。 「子爵、あの者は一族の者ですのでご安心ください。身元もしっかりしております」 「幾つだ」 「二十歳です」 「変えろ」 「しかしながら先月も――」 「珠姫は俺のフラウ(妻)だ。俺が信用できない者に預けられない」  仲山は困惑した目を曲に向ける。彼が珠子の護衛を気に入ったためしはなかった。年が多くても少なくても気に入らない。男でも女でも同じだ。仲山はなにか言いかけたが、曲が切れ長の瞳を鋭くすると、忠実な秘書はただ頷いて馭者に出発の合図を送るしかなかった。  曲はもう一度、彼女を振り返る。唇に指を触れて……。  後ろ姿しかもう見えなくなった彼女は、護衛軍人の五歩後ろを歩いていた。古風な彼女は最近の浮かれた女学生とは違い、慎みやかで清楚だ。友達が人力車で颯爽と「ごめんあそばせ」と帰る中、護衛が荷物を持ってやろうとしているのも断り、風呂敷包みを抱えて楚楚と歩く。それを何度も護衛の男が振り返り見ていた。  ――珠子。  嫉妬が曲の心に浮かぶのは、当然だった。  珠子こそ、彼が十一、彼女が七つの時に共に華燭を上げた相手なのだから。  問題は、それを彼女が覚えていないことだ。彼女の安全のため、手を離さなければならなった。  後悔は数え上げたらきりがない。  そして最近厄介なのが、彼女が期待以上に美しく育ってしまったことだ。妻などというものは少しぐらい不細工でも見慣れてしまうというのに、どうして人の目を惹くような容姿になってしまったのか。案の定、詰め襟と角帽の帝大生とおぼしき男が珠子の横を通り過ぎざまに艶書を袖に入れて行った。護衛も珠子自身もまったく気づかず前を行く。あれが刃物だったらどうするつもりだと、曲は護衛に憤慨する。  曲は六尺も背のある長い脚を窮屈に組むと深い息を吐いて怒りを抑えた。 「フラウをこれ以上、市井に置いておくわけにはいかない。明日、迎えを遣わすように」  仲山が驚いて細身の体を前のめりにさせた。 「十八まで屋敷に迎えないとのご本家の公春さまとのお約束です。珠姫さまは十七、年が改まれば十八です。もうしばらくのご辛抱ではありませんか」 「数字は所詮数字だ。十八『くらい』という話だった。十八歳のその年にという約束ではなかった。違うか?」  仲山は当惑を隠さず、曲は眉間を指で押さえた。  氷の男と噂される実業家、黒木曲子爵が、こうも乱れるのは妻、珠子の件だけだ。 輪郭の整った顔立ちを不機嫌にさせ、腕を組み、彼は考えた。約束などは反故にするために存在するのではないか。しかも約束は口約束にすぎない。法律的に言っても珠子の庇護者は彼女の実家ではなく自分だ。書類も揃っている。誰にも文句は言わせない。  仲山が声を潜めた。 「珠姫さまの『目覚め』はもうすぐです」 「今までは市井に隠しているのが安全だった。だが、今の状況を鑑みると、おちおちしている場合ではない。そうではないか」 「もめることになります」  曲は反論しようとして口を開き掛けた。旧信岡藩は旧杉原藩とは本家、分家の間柄。曲は黒木家の分家の当主。本家の娘である珠子の件で合意を破棄すれば、本家との確執はたしかに起こるだろう。だが、これ以上問題を先延ばしにするのは、逆に良くないのではないか――。時が経てば経つほど、ことは深刻化し、絡まった糸は解けなくなるのではないだろうか。  馬車がゆっくりと動き始めた。曲は思考にふけろうとしいた。しかし――。 「きゃあ!」  叫び声がして後ろを振り返れば、三人の男が珠子の衿を掴んで引っ張り、人力車に無理矢理押し込めようとしているではないか。護衛の軍人はまったく役に立たずに腹から血を垂らしてうずくまっている。曲は馬車が動いているのもかまわずにドアを開けた。仲山の止める声がしたが、かまわなかった。  ――珠子を助けなければ! 「その汚い手を離せ!」  曲はステッキの仕込み刀を躊躇なく抜いた。 「離せと言ったのが聞こえなかったのか!」  真夏の街道で切っ先が炯炯と輝いた。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!