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価値のない金貨
路地を走る。
懐にはスリの成果のサイフ。
すられた相手は毛ほども気づかず、未だ往来を平和な顔で歩いているだろう。
あと少しで家に着く。その瞬間目に入ったのは、左手の薄暗い道に浮かぶ豪華な車。まるでパレードで王族が乗るようなそれは、あまりに場違いで思わず足が止まる。
なんだ?貴族のお忍びか?裏取引か?
大通りから遠く離れたこの地域は、闇に葬られるあらゆる犯罪の温床となっている。あからさまにヤバい現場を日に何度も見るのが当たり前だ。
それでもその車は異質だった。取引なら機能性優先の車に乗るだろうし、お忍びなら殊更目立たない車を選ぶはずだ。
それでも気にせずに、そのまま立ち去れば良かったのに。ここでは何を見ても無視して去るのが賢い生き方なのに。
なぜあの時の俺はいつまでも動けなかったのだろう。
「なんだ。あのガキ。あんなとこで何ぼーっとしてんだ」
「ちょうどいい。今週連れてくヤツがまだ足りてない。あいつなら大人しそうだし、捕まえるぞ」
少し離れたところで男達の声が聞こえる。しまった。こんな所でぼんやり立っていたら人買いのいいカモだ。
慌てて逃げようとするが、ヤツらと反対側は遮るもののない真っ直ぐな道だ。行ってもすぐ捕まるだろう。
仕方なく薄暗い道に入り、車の陰に隠れる。
隠れる時に見た車内には、俺と同い年くらいの少年が1人いただけだった。
これなら……
異質な車と関わるリスク。人買いに捕まるリスク。2つを比べて前者をとった。
「動くな。大人しくしていれば危害は加えない。用が済めばすぐに去る」
車内にいた少年にナイフを突きつける。
少年は驚いた様子もなく、こちらをチラッとみるとフロントガラスのほうへ視線を戻した。
なんだ、こいつ。脅されてるのに怖くないのか。
ナイフを持つ手は緩めず、相手の様子を探る。
外から確認した時は分からなかったが、少年は教会の服を着ていた。神父なのだろうか。生まれてこの方信仰なんてしたことがないので、それがどんな階級の服なのかはわからない。上質な布が使われているので位は高いのか。伸ばされた背筋で前方一点だけを見る姿は美しいが、そうあるべきだからしていますという印象が強くてまるで感情が感じられない。
「あのガキ、どこ行きやがった」
「おい、なんだあの車」
「ガキの走ってったほうだな。チッ。ガキ1人のためにあんなのに関わってらんねぇ。他を探すぞ」
少年の意外な反応で忘れていたが、人買い共はどうやら去ったようだ。
そっと胸を撫で下ろす。
「追われていたのか?」
気づくと少年がこちらを向いていた。
その目はとても澄んでいるのにどこまでも深い闇のようで、背筋にゾッとしたものが走る。
「お前には関係ない」
ナイフを更に突きつけようと身を乗り出したせいで、懐に入れていたサイフが落ちた。慌てて拾う。
少年は少し考える顔をしている。
「スリか?」
「………なら、どうする?軍に突き出すか?それとも、お偉い神父様は哀れな犯罪者に説教でもするか?」
「軍に言う気はないし、説教もしない。そもそも俺は神父じゃない」
「は?じゃあ、その格好はなんなんだよ」
「役割のために着せられてるだけだ。俺自身はなんの信仰心もないよ」
「あ、そう。まあどうでもいいよ。用は済んだから俺は行くぜ」
「いや、待ってくれ」
去ろうとする俺を止めて、少年は横に置いた汚いカバンから袋を2つとりだした。
「君に頼みがあるんだ」
「は?なんでそんなの聞かなきゃいけないんだよ」
「追っ手から助けてやっただろう。それに聞いてくれるなら報酬もある」
そう言って袋の1つを開くと、中にはかなりの額の金が入っていた。
「頼みを聞いてくれるならこの金は君にあげよう」
「………ヤバい仕事じゃねぇのか」
「そうでもない。ただ預かって欲しいものがあるだけだ」
もう1つの袋を開く。そちらには見たことのない金貨が数枚入っていた。
「この金貨を預かって欲しい。そして、もしサカドという人に会うことがあれば渡して欲しいんだ。ただ、別にサカドという人を探して欲しいわけではない。君はただ持っていてくれるだけでいいし、君が生を終えるまでに会えなければ捨ててくれて構わない。もちろん紛失してしまったり奪われることがあれば無理に取り返さなくてもいい」
「随分と俺に都合のいい条件だな。お前と別れた瞬間にその金貨を捨てるかもしれないぜ」
「それならそれでいい。どちらにしろ、このまま俺が持ってても捨てられるだけだから。まあ、俺の自己満足な頼みなんだよ」
わけがわからないが別に裏がある感じでもない。スリで危険を犯しながらチマチマ稼ぐより、これだけの大金なら多少のリスクはあっても受けない理由はないだろう。
「……名前は?」
「え?」
「お前の名前だよ。もしサカドとかいうヤツに会えたら、誰に預かったのか名前がわからなきゃ言えないだろ」
「………フッ。あははは」
少年が急に笑い出した。
どこかに置き去りにしていた感情を取り戻したかのような姿は、まるで先ほどまでとは別人だった。
「君は案外いいヤツなんだな」
「う、うるさいな!大金もらうんだから、それぐらいはしないとと思っただけだ!」
「ははは。そうか。会えたのが君みたいなやつで嬉しいよ」
朗らかという言葉が浮かびそうな顔で笑う少年に、この異常な状況を忘れてしまいそうになる。
気づくとナイフを持っていた手は下ろされ、少年に対する警戒心は薄れていた。
「で、名前はなんなんだよ?」
「ナズだ」
「ナズ…か。なんか伝言とかないのか」
「伝言か……。いや、名前だけでいい。話したいことは十分話せたから」
とても穏やかな、満足そうな顔をしてナズは答えた。こんな満ち足りた顔をした人間は見たことがない。どんな想いがあればこんな顔ができるんだろう。
「さあ、そろそろ運転手が帰ってくるから行ったほうがいい」
自分の立場を思い出して、慌てて袋を抱えて車のドアを開ける。
最後になんと言葉をかければいいのかわからず、車から出ながらチラッとナズを見ると静かに頷いて見送られた。
「俺も随分とお人好しになったもんだ。あいつの影響かな」
ドアを閉める瞬間、微かな呟きが聞こえた。
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