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春が好きだ。正確には桜餅が好きだ。
関東は長命寺、関西は道明寺とかいう区分があるが、桜餅好きからすれば全くどうでもいい。あんなことを言い出した輩は、桜餅愛好家の分断を図る愚か者どもに違いない。
雅やかなクレープ生地も、つぶつぶもちもちの餅米も、みな等しく美しく、そして美味いことに変わりはないのだから。
俺は桜餅が好きだ。この時期は和菓子屋に特製桜餅が毎日並ぶ。最高だ。毎日が春ならいい。
「ごめんください」
格子の枠がついた引き戸を開けてひと声かける。大学の帰り道、通称学生通りと呼ばれる小さな商店街にある小さな和菓子屋。小学校のころから通っている、俺の馴染みのお店だ。
「はいはい。おやキンちゃん、いらっしゃい」
カウンターを挟んだ小さなのれんの向こうから店主の親父さんが顔を出す。
呼ばれたのは俺の名前、錦二からキン。至極分かりやすい。
「桜餅ふたつ」
「あいよ。この時期になるとキンちゃんが来るのが待ち遠しいよ。本当に桜餅好きなんだねえ」
今年還暦という親父さんは嬉しそうに笑いながら桜餅を店の名前がプリントされた包装紙に包んでくれる。
「豆餅やよもぎ餅には目もくれず桜餅のみ。いいねえ、粋だねえ」
「粋かどうかは分かりません」
「それひと筋ってことはね、粋なんだよ」
分かるような分からないようなことを言う。俺は親父さんから桜餅を受け取った。
「まいど」
「ありがとうございます」
「またおいで」
親父さんに一例して、店を出た。
商店街から大通りに出て、てくてく歩くと町なかを通る河川に突き当たる。川に向かう舗装された傾斜には花見を楽しむ人たちが間隔をあけて座っている。
俺は踵を返して人々から距離を取ると、橋の下に目的を定めて腰を落ちつけた。ここからでは河川敷を彩る桜はほぼ見えない。
だがそれでいいのだ。俺が好きなのは桜じゃない、桜餅なのだから。包んでもらった桜餅を膝上に乗せる。俺は敬意を込めて両手を合わせた。
「いただきま――」
「重いわ!!」
突然聞こえた声に虚を突かれる。誰だ?
もしや長命寺派か道明寺派の刺客か。あそこの和菓子屋は道明寺の桜餅しか置いていない。もしも俺をマークしてきたならず者が長命寺派なら恐ろしいことだ。
「何者だ? 名を名乗れ! 不意打ちとは卑怯なり!」
「一体さっきから何の話をしているの? あんたは」
油断なく構えた俺は、冷静に声の主を見る。桜色のニットにチュールスカート、そして長い髪の毛のアクセントになっている桜の髪飾り。
おそらく世界一桜が好きなのであろういでたちの、俺と同じくらいの歳の女が太陽を背にして立っていた。
「……誰かと聞いている」
「誰でもいいでしょう。あんたこそ何? キレイな桜の花に目もくれないで、こんな暗い橋の下で一人で桜餅食べるなんてだいぶ頭おかしいわよ」
初対面なのに失礼な女だ。俺は大事な桜餅を胸に抱えて女から距離を取った。
「桜好きすぎて頭の中まで桜が咲いてそうな見た目の人間に頭おかしいとか言われたくはない」
「あんたすこぶる失礼ね! 別に私は桜が大好きなわけじゃなくて……」
「なくて?」
「……そっ、そうね、桜餅。桜餅が好きなの」
明らかに取り繕った様子だ。だが重要なのはそこじゃない。
「この俺に桜餅で張り合おうというのか?」
「桜餅で張り合うってどういう状況よ」
「しらばっくれるな。お前の魂胆は分かっている……これだな?」
「いや、桜餅片手にドヤ顔されてもね」
何やらドン引きの演技で翻弄させようとしているようだが俺には分かる。奴は俺の桜餅を狙っているのだ。
「卑しい奴め。桜餅が食べたければ自分で買いに行けばいいだろう」
「卑しいって何よ!? 別に取ろうなんて考えてないし! それに……」
女は急にしおらしくなって、ぶつぶつ呟いた。
「私はここから、動けない」
「元気に動いてるじゃないか」
「河川敷ではね。でもここから外に行けないの」
「なにゆえに?」
「知らないわよ、そんなこと」
俺をからかって喜んでいるような顔には見えなかった。本当にここで暮らしているわけではないだろうが、訳あって著しく行動範囲が制限されているのだろう。
「まあいい。俺は気分がいい」
「え?」
「ちょうど2個あるから、そんなに食べたければくれてやろう」
「ちょ、ちょっとどこ行くのよ?」
俺は橋の下から桜咲き誇る並木道へと足を向ける。
「ここは狭い、そして暗い。二人で向かい合って桜餅を食べるには不向きだから移動する」
「……あんた変わってる」
「お前がそう見えるのなら、そうだろう」
女は黙って俺の後をついてきた。
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