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河川敷公園のベンチに隣り合って座り、俺は桜餅の包み紙を開けた。
つやつやの餅米が美しい、ほのかなピンク色の和菓子が2つ並んでいる。
「これが俺の知るうちで一番美味い桜餅だ。心して食えよ」
「どーも。ふうん、確かに美味しそうね」
女は受け取った桜餅を両手に乗せてしげしげと眺めている。俺はそれには目もくれず、桜餅に半分かぶりついた。
美味い。口の中に広がる桜の葉の塩漬けの香り、むちむちとした弾力の餅、そして和菓子職人渾身の情熱を込めて炊き上げたあんこの上品な甘さ。
この世にこんな完璧な菓子があっていいのか。これが通常であれば春しか食べられないなんて、世界の損失じゃないのか。そして食べたら無くなってしまうのは何故なのか。
「……っう、」
「なんで桜餅食べて泣いてんの……? 純粋にキモいんだけど」
「叙情を解さない女だ。俺の涙はいいから世界の至宝を味わえ」
「ええ……本当にキモい……いただきます」
女はこわごわといった様子でちまりと桜餅を食べた。
「! おいしい……!」
「それ見たことか」
「ドヤ顔すんなムカつく。や、でもこれほんとに美味しいわ」
女は俺のとっておきの桜餅を気に入ったらしく、あとは二口ほどで食べてしまった。
「ごちそうさま」
「どういたしましてだ」
「美味しかった。美味しかったけど……」
女は俺を不思議そうに見つめる。
「どうしてあんたは桜より桜餅が好きなの?」
「そんなことが気になるのか?」
「だって、みんな桜を見に来るものよ。それがあんたは桜には目もくれない」
「簡単なことだ」
俺は手の内に残った桜餅を一口で食った。
「順番が先だった」
「順番?」
「そうだ。桜をキレイだと感じる前に桜餅に出会ったから。それだけだ」
もはや何が理由かも定かではない。幼いころ、とにかく気に食わないことがあって大泣きしたことがあった。匙を投げた両親に代わって、泣きわめく俺の手を引いて外に連れ出してくれたのがばあちゃんだった。
ばあちゃんは行きつけの和菓子屋で桜餅を買って、俺に与えてくれた。あのころは和菓子屋の親父さんも今よりは若かった。
桜餅を一口食べた俺は、この世にこんなに美味いものがあるのかと感動した。涙は一瞬で引っ込んだ。
「あのとき俺と桜餅の間には何も邪魔するものはなかった。俺は桜餅と通じ合った気がしたものだ」
「そこの文脈は分からんわ。ともかく、桜を見る習慣ができるより先に桜餅おいしいって情緒が育つ方が先だったわけね」
「その通りだ」
女はしばらく考えていたようだったが、突然足をばたつかせて唸り声を上げた。
「あ〜〜〜〜!! なんかすっごいムカつくわ! 桜の魅力が桜餅に負けるなんて!」
「勝ち負けじゃないだろう」
「うるさい桜餅馬鹿。花より団子もそこまで突き抜けてたら天晴だわ。全然褒めてないけど」
「俺は団子はあまり好きじゃない」
「まったく……」
女は一転して愉快そうに笑っている。
「ありがとう。あんたがくれた桜餅の味、忘れないわ」
「当たり前だ。そう簡単に忘れるな」
「その代わり、あんたも覚えていて。私がここに居たこと」
「うん?」
「私がずっとあんたたちに愛されていたこと」
「愛された? 何を言っている?」
「いいから。忘れないでね」
遠くから海鳴りのような音が近づいてきたと思ったら、横から巻き上げるような突風が吹いた。思わず目を閉じかけた視界が淡い桜色に染まる。周囲にいた花見客の小さな悲鳴が響いた。
「今のなに?」
「びっくりした〜!」
ようやく風が落ちついて、薄目を開く。辺りには桜の花びらがゆっくりと舞い散るだけで、さっきまで同じベンチに座っていた女の姿はどこにも見当たらなかった。
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