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それから数年ののち、桜の花は俺たちの前から姿を消すことになる。
桜――ソメイヨシノは接木で増える植物だ。実は自然繁殖ができないため、急激な気候変動などが起こると環境に適応できず全滅する可能性もある。
やがてその日が訪れてしまった。桜は徐々に種として退化し、皆が好む淡いピンク色の花びらが失われてしまったのだ。
あの桜大好きな女はさぞがっかりしているだろう。しかし、桜餅を分け合った日から俺が彼女に会う機会は一度もなかった。
もはや桜が花を咲かせていたことが人々の記憶からも薄れ始めた未来。すっかり白髪のジジイになった俺は今日も桜餅をこしらえて店頭のショーケースの中に並べていた。
「おじいー、桜餅ちょうだい」
店の引き戸を開けて中に入ってきたのは、近所に住む口の立つクソガキだ。唯一良いところがあるとしたら、桜餅が好きなことに尽きる。
「またか。もうお小遣い無くなったんじゃないか?」
「とっくに。だから〜、ツケで!」
「そんな歳からツケなんか覚えるんじゃない。ほら、小さすぎて売れないものならやる」
「やった〜」
クソガキは俺特製の小さな桜餅を受け取って喜んでいる。その瞳が、ふと不思議そうにショーケースの中に並ぶ桜餅へと向けられる。
「どうした?」
「ねえおじい。どうして桜餅はピンク色してるの?」
「簡単だ。昔の和菓子職人が花見の時季に合わせて桜餅を発明したからだ。桜餅のピンクは桜を表現したものだ」
もう、散々うちの店の桜餅を食べてきただろうに、クソガキは大袈裟に驚いた。
「ええ〜? あの葉っぱしか生えない木?」
「そうだ。昔はピンクの花が枝いっぱいに咲いていた。みんな桜の花が大好きだったんだ」
「どうして今は葉っぱだけなの?」
「分からん。おじい達は頭が悪かったから、桜は毎年咲くものだと思っていた。桜が大好きだったのに、大事にしてやれなかったから怒ったのかもしれん」
「ふ〜ん」
小さな桜餅を、クソガキは一口で食べた。
「だけどな、もうすぐお前も桜の花が見られるようになるかもしれんぞ」
「え、どうやって?」
「桜が完全に弱ってしまう前に、同じく数を減らしていた植物や動物たちを大きなロケットに積み込んで、宇宙に飛ばした人たちがいた。だから、宇宙では今も桜の花が咲いてるらしい」
「すごい、頭が良い人もいたんだね! そのロケット、今はどこを飛んでるの?」
「ロケットで運んで宇宙ステーションで育ててるんだ。たまに夕方あたりに空を見上げると小さく見えるだろう?」
「うん、前に学校の授業で見たよ」
「そうか……」
俺は頭が悪いから、己が愛する桜餅以外は目もくれなかった。でもあの日交わした約束は覚えていた。和菓子屋の親父さんに弟子入りして、店を継いだのはもう何十年も前のことだ。
あのとき、河川敷から出られないと寂しそうに呟いていた桜の女。いま彼女は、遥か上空の宇宙ステーションの中から世界中を眺めている。
現行のソメイヨシノの自然繁殖の研究が成功したというニュースが報じられたのが先週のことだ。
あとは宇宙ステーションで保管されている、花を咲かせるソメイヨシノの遺伝子との掛け合わせが成功すれば、昔のようなピンクの花弁を咲かせられる。かつ人工的な接木ではなく、自然に増えて環境にも適応する桜の木が誕生するかもしれない。
「お前がもう少し大きくなるころには、この桜餅が桜を模したものだということが当たり前の世の中になるだろう」
「ほんとにー?」
「ああ。そして春の花見も復活して、桜は誰からも愛される花になる」
そうなれば、あの女はまた俺の前に姿を現してくれるだろうか。
その日が来るのを待ちわびながら、俺は毎日桜餅をこしらえるのだ。
終
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