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予定通りスーパーでワインとチーズを買った巽は、家に帰るとグラスを用意して灯希を待った。スマホには『友達とレポートやってから帰る。遅くならないから夕飯待ってて』とメッセージが入っていたので夕飯は家で食べるつもりなのだろう。巽は冷蔵庫の扉を開け、中を覗いた。いつもはビールくらいしか取らないそこには、作り置きの惣菜や肉や魚などの食材がきちんと入っていた。灯希がちゃんと毎日バランスよく食事を作れるように用意しているのだろう。それも巽のためなのだと思うと嬉しい半面、情けなくて申し訳なくて胸が痛くなる。灯希はこんなことに時間も気も使って、自分のことを後回しにしているのだろう。もしかしたら自分のせいで友達との付き合いも上手にできていないのではないか。今日だってそのまま夕飯も友達と食べてきたかったのではないかと思うと、落ち込んでしまう。
巽は、今からでも食べておいでとメッセージを返した方がいいのでは、と思い、冷蔵庫を閉めてリビングテーブルに置いたままだったスマホを手に取った。けれどその時、玄関のドアが開く音が響き、ただいま、という灯希の声が耳に届いて、巽は大きく息を吐いた。
いつも自分は決断が遅い。
「巽さん、ただいま。先に帰ってたんだね」
今ご飯作るよ、とソファにカバンと上着を置いた灯希は、そのまますぐにキッチンへと
向かった。
「……おれも手伝うよ」
巽がスマホを置いて立ち上がり、灯希の隣へ並ぶ。灯希はそんな巽を見て、少し驚いた顔をしてから、怪我しないでね、と笑った。
「いつもなら、先に飲んでるのにどうしたの?」
「ん……おれもそろそろちゃんと料理くらいできないと、と思って」
いい歳だしな、とシンクで手を洗っていると、その手を灯希が掴んだ。熱い手の感覚に驚いて巽が灯希を見上げる。その表情はどこか焦りを帯びていて、いつもよりも険しかった。
「どういうこと? 俺がいるんだから、巽さんは料理なんか覚えなくてもいいよね?」
「そういうわけにはいかないだろう? やっぱりこのままじゃだめだと思うんだ」
灯希はずっと傍にいると言っていたが、それが本当に灯希のためか分からない。さっき見かけた自然な灯希の笑顔は巽と離れ、自由なところで生まれるものなのだとしたら、自分は足枷でしかない。
「だめじゃないよ。俺は巽さんが好きなんだから、これでいいんだよ」
「よくないよ。さっき……駅前で灯希を見かけた。すごく楽しそうで、おれといる時なんかよりずっと自然な感じで……やっぱり灯希には同年代と過ごす時間だって必要なんだよ。毎日律儀にここに帰ってくる必要なんかないんだ」
巽が灯希の目を見つめると、灯希は、そんなの要らない、と巽を眇めた目で見つめ返した。
「大学の友達とは大学で会ってるし、時々は今日みたいに遊んだりしてる。それでいいんだよ。巽さんとの時間の方がずっと大事だ」
大事、と言われればそれは当然嬉しい。けれど、同時に無意識に灯希を縛っているのではないかと不安にもなる。
「灯希、おれ思ったんだよ。やっぱりおれと灯希はもう少し距離を置くべきだって。きっとそうすれば見えてくるものもあると思うんだ」
巽がなるべく優しくゆっくりと話す。けれど灯希は、嫌だ、と泣きそうな顔をして首を振った。
「距離なんていらないよ。ゼロ距離でいい」
灯希が巽の手を引き、そのまま巽を抱きしめる。
以前木南が、灯希にとって巽は親鳥なのではないか、と言っていた。刷り込みで巽を好きになっているだけだと。もしそれが本当なら、こちらから手を離してやるべきなのだろう。
「……灯希、おれだって、いつか誰かと結婚とかするかもしれないんだよ。この距離ではいられないだろ」
巽が灯希の胸に話しかける。すると灯希は巽の肩を掴み、その体を引きはがすと真剣な目をこちらに向けた。
「なにそれ……巽さん、誰かいるの?」
ぎり、と肩が強く掴まれ、巽はその痛みに眉をしかめた。それでも灯希はより強く巽の肩に指を食い込ませた。
「いない、けど、でもいつか……」
「そんないつかは来ないから」
灯希は低く告げると、巽を抱え上げた。
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