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 頭の内側から鈍器で叩かれているような痛みに襲われた巽は、何度か瞬きをしながらゆっくりと目を開けた。段々と開けていく視界に広がるのは白い天井だった。医療機関特有の匂いはしない代わりに、嗅いだことのあるフレグランスの香りがかすかにしていた。 「……どこ、だ……? 」  巽は肘をついて体を起こすと、辺りを見回した。どうやら誰かの家の寝室のようだが人の気配はない。ここがどこかわからないというのはなんだか不安だ。巽はとりあえずベッドを出ようと、床に足を降ろした。その瞬間、ドアの方から音がして、巽はそちらに視線を向けた。 「あ、麻岡、起きた?」  突然部屋のドアが開き、そんな声が聞こえる。顔を上げるとそこには木南が立っていた。手にはビニール袋が提げられている。知っている顔にいくらかほっとして、巽は頷いた。 「木南……なんか迷惑かけたっぽい?」 「迷惑なんて、全然。それよりまだ休んでな。派手に倒れたんだから」  やっぱり自分はあの時倒れたらしい。この頭の痛みもその時にどこかにぶつけたせいなのかもしれない。ここまでの経緯を知りたくて巽は口を開いた。 「ここ……もしかして木南の家か?」 「ああ、うちだよ」  木南はベッドの傍に椅子を寄せると、持っていたビニール袋の中からペットボトルを取り出し、巽に差し出した。中身は水で、巽はそれをありがたく受け取った。 「今日は産業医が来てる日だったから、すぐ呼んで……貧血だってことだったからうちに連れてきた」  栄養と休養が必要って言われたし、と木南は微笑むが、巽は眉を下げて、ごめん、と謝る。 「起きるまでそのままにしてくれてよかったのに」  いくら巽が木南に比べて身長が低いとはいえ、脱力した成人男性はさぞかし重いはずだ。運ぶなんて無理がある。 「会社の床に転がしておくわけにはいかないだろ。それに、起きたら麻岡は自宅に戻るってきかないと思って。一人の家に帰すのはやっぱり心配だったから、手縛って無理やり背負って来た」  痕残ったりしてないか? と聞かれ、巽は自身の手首に視線を落とした。確かに若干赤い痕があるが、痛むほどのものではない。 「そっか……悪かった。これ以上迷惑掛けられないから帰るよ。高梨さんもいるんだろう?」  時間は分からないが部屋の雰囲気から既に夜を迎えているだろうことは分かる。高梨だって帰宅する時間だろう。  彼女なら優しいから、泊っていって、と言ってくれるかもしれないが、本音もその通りかなんて分からない。  眉を下げる巽に木南は、いないよ、とあっさりと返した。巽が首を傾げる。 「ここに高梨は住んでないし、これからも住むことはない」 「……え?」  木南のその言葉が全く理解できなくて巽は怪訝な表情で木南を見つめた。視線の先の顔が少しだけ微笑む。 「オレと高梨は偽装結婚なんだ」 「ぎ……? え?」  その単語の意味は分かるが、それが木南の口から出ることが分からなくて巽は再び首を傾げた。まだ実は眠っていて夢を見ているのか、はたまた倒れた時に頭でも打って妄想でも見ているのだろうか。  巽はよほど不思議そうな顔をしてしまったのだろう。木南が最初から話すよ、と笑った。巽はそれに頷く。 「初めは、営業内の飲み会で、高梨が『結婚しろって親がうるさい』っていう愚痴を吐いたことがきっかけで……オレはこの先結婚とかする可能性の方が少なかったし、オレの籍で良かったら入るか? ってノリで聞いたら、それいいかもって、向こうも乗ってきて……あとは周りに嘘を吐いて嘘の式を挙げたんだよ」 「そんな、理由?」  結婚なんて、もっと重いものだと思っていた。プロポーズなんて言葉もあるくらいなのだから、どこかに遊びに行くような軽いノリで誘うものではなくて、もっと神聖なものなのだと思っていた。木南と高梨にとっては違うのだろうか。 「うん、まあ、そんな理由」 「それって、木南に何もメリットないだろう?」  木南の話は、高梨の都合に木南が合わせたようにしか聞こえなかった。木南が高梨のことを好きだからこんな提案をしたのかもしれないと思ったが、だったら無理にでも一緒に暮らすことにしているだろう。 「あるよ。麻岡が高梨を諦めてくれたし、高梨が転勤を選んで物理的に麻岡から離すことができる」 「おれ……? いや、元々高梨さんのことは諦めるとか、そういう次元じゃないし……」  確かにいいなとは思っていた。けれどそれは憧れの域を越えない淡いもので、恋人になりたいとか、そんなものではない。 「高梨から言い寄られてもそう言えるか?」
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